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COLUMNSブログ「論語と算盤」

天地自然の真理

2025年6月20日

経書けいしょを読むは、すなわち我が心を読むなり。認めて外物とすことなかれ。我が心を読むは、即ち天を読むなり。認めて人心と做すこと勿れ。〔耋十二〕

(聖賢の書を読むことは、すなわち自分の本心を読むということである。したがって、自分の外にあるものを読んでいると見なしてはいけない。自分の本心を読むというのは、すなわち天地自然の真理を読むことである。したがって、本心を私心というように理解してはいけない。)

<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>

 

 

 

 

本心と私心は違う

 

本心は天地自然の真理とのこと

 

 

 

 

思い出した言葉があります。

 

 

 

〝 常に心の師となるべし

    心を師とせざれ 〟

          <源信>

 

 

 

この言葉の “ 心 ” とは

遊びたい

楽しみたい

喜びたい

傲慢でいたいなど

 

当てにできない

我欲にまみれた思いです

 

 

では〝 師 〟 とは

 

それが〝 本心 〟

 

つまり

天地自然の真理

 

 

 

 

 

 改めて自らを振り返ってみると、家族や知人と手を取り合って成し遂げられたことや、自分をもっと高められたことなどがあったはずです。

 

つまりは、今よりももっと素直で伸びやかな、人間らしい生き方ができたはずです。

 

 

 

しかし常日頃、そんな反省の気持ちは消えています。

 

というより、邪魔なものとして “ 私心 ” が消しているのでしょう。

 

 

 

 

なぜ

人間らしい生き方

完全な自己実現の生き方

そんな生き方ができないのか

 

 

 

やはり、自分の “ 心 ”、“ 私心 ” に負けてきたからでしょう。

 

 

 

 

 人々が生きる時代ごとに程度は異なるでしょうが、皆同じなのではないでしょうか。

 

ある人は、周囲の人のおかげで、あるいは忙しかったため、“ 私心 ” が出てくる場面がなかった、だから立派になった、ということもあるでしょう。

 

 また、ある人は、自分の “ 私心 ” を捨てなければならないほどの辛く苦しい体験を経て、立派になったということもあるかもしれません。

 

 

 

 

 私たちは戦後長らく、自分の考えや思いを尊重し、自分の意思で、自分の思うように生きるべきと教えられてきました。

 

しかし、人々の “ 私心 ” は、これらの教えを都合よく解釈してきたのです。

 

 

 

 

“ 心のおもむくままに ” では

人生は開けません

 

〝 本心である天地自然の真理 〟

それに沿うことによってこそ

明日を拓くことができるはず

 

 

 

自分の〝 本心 〟を読み

天の思いを知る

 

物体としてのこの肉体と

あわれであやういこの心を統制し

人間らしい人生を生きぬく

 

 

 

今日の言葉は

私の心に強く突き刺さります