経書を読むは、即ち我が心を読むなり。認めて外物と做すこと勿れ。我が心を読むは、即ち天を読むなり。認めて人心と做すこと勿れ。〔耋十二〕
(聖賢の書を読むことは、すなわち自分の本心を読むということである。したがって、自分の外にあるものを読んでいると見なしてはいけない。自分の本心を読むというのは、すなわち天地自然の真理を読むことである。したがって、本心を私心というように理解してはいけない。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
本心と私心は違う
本心は天地自然の真理とのこと
思い出した言葉があります。
〝 常に心の師となるべし
心を師とせざれ 〟
<源信>
この言葉の “ 心 ” とは
遊びたい
楽しみたい
喜びたい
傲慢でいたいなど
当てにできない
我欲に塗れた思いです
では〝 師 〟 とは
それが〝 本心 〟
つまり
天地自然の真理
改めて自らを振り返ってみると、家族や知人と手を取り合って成し遂げられたことや、自分をもっと高められたことなどがあったはずです。
つまりは、今よりももっと素直で伸びやかな、人間らしい生き方ができたはずです。
しかし常日頃、そんな反省の気持ちは消えています。
というより、邪魔なものとして “ 私心 ” が消しているのでしょう。
なぜ
人間らしい生き方
完全な自己実現の生き方
そんな生き方ができないのか
やはり、自分の “ 心 ”、“ 私心 ” に負けてきたからでしょう。
人々が生きる時代ごとに程度は異なるでしょうが、皆同じなのではないでしょうか。
ある人は、周囲の人のおかげで、あるいは忙しかったため、“ 私心 ” が出てくる場面がなかった、だから立派になった、ということもあるでしょう。
また、ある人は、自分の “ 私心 ” を捨てなければならないほどの辛く苦しい体験を経て、立派になったということもあるかもしれません。
私たちは戦後長らく、自分の考えや思いを尊重し、自分の意思で、自分の思うように生きるべきと教えられてきました。
しかし、人々の “ 私心 ” は、これらの教えを都合よく解釈してきたのです。
“ 心のおもむくままに ” では
人生は開けません
〝 本心である天地自然の真理 〟
それに沿うことによってこそ
明日を拓くことができるはず
自分の〝 本心 〟を読み
天の思いを知る
物体としてのこの肉体と
哀れで危いこの心を統制し
人間らしい人生を生きぬく
今日の言葉は
私の心に強く突き刺さります