倉内財有朽 身内才無朽 雖積千両金 不如一日学 〔實語教〕
倉の内の財は朽つること有り。身の内の才は朽つること無し。千両の金を積むといえども、一日の学にはしかず。
(意訳:金庫に溜めた財宝は無くなることがあるが、学んで身に付けた才、知恵はなくなることはない。千両の金といっても、一日の学びには敵わない)
<参考書籍:『實語教童子教 改版』馬喰町 錦耕堂山口屋藤兵衛板 解説>
財は使えば無くなります
盗まれても無くなります
さらに、以前も書きましたが、死んだら何の役にも立ちません。
しかし一方、才、知恵はいくら使っても無くなりませんし、盗まれて無くなることもありません。
なぜ人は、財の多さに魅了されるのでしょうか。
昔から、人々は黄金の美しさに心を奪われてきました。
美しいものをできるだけ多く自分の所有物としたい、というような欲なのでしょう。
つまり
財に自分の心が
振り回されているということ
この状態は
財と人の関係を考えたとき
“ 財が主 ” で “ 人が従 ” となっています
洋服や装飾品
住まいや自動車など
より目立つ物や煌びやかな物質を
多く持ちたいという欲に分別なく従う人々
もともと財に
興味のない人でも
宝くじを引き当てたり
事業で成功したりするなどで
一変してしまうことさえあります
財の魅力は恐いもの
でしょうか
いやそれよりも、人の心は弱いもの、という見立てが正しいでしょう。
人前でのマナー
品のある振る舞い
正しく美しい言葉遣いなど
これらに特別の財は不要です
自らが学べば習得できます
学びたいという
意欲さえ有るのなら
さらなる偉大な知恵を
身に付けることも可能です
いままでになかった
未知となる知恵さえ
習得できるかもしれません
一方で
財を求めることは
既存の物質に振り回されるだけ
“ 猿回しの猿 ”
お猿さんの方になりたいですか
欲に塗れる
哀れな人生は情けない
智恵を身に付け続け
自らが主となる日々の人生
それであってこそ
この世に生まれ出でた意味があるはず