余、今年、齢八袠に躋るも、耳目未だ太だ衰うるに至らず。何ぞ其れ幸いなるや。一息の存する、学廃するべきに匪ず。単記して編を成す。呼びて耋録と曰う。 嘉永辛亥夏五月 一斎老人自ら題す
(私は今年、八十歳に達したが、まだ耳も目もそれほどひどく衰えてはいない。なんとこれは幸せなことではないか。生きている限りは、学問をやめるべきではない。一条ずつ記したものが一編になった。これを耋録という。
嘉永四(一八五一)年夏五月 一斎老人自ら題す)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
私は本年60歳に達しました。
耳や目の衰えはそれほど感じておらず、人並程度かと思っています。
170年ほど前のこの年代、佐藤一斎のように80歳まで生きる人は決して多くなかったはずです。
今ならどうでしょう、100歳程度となるのでしょうか。
その年齢で耳と目の衰えがそれほどひどくなく、学問を続けているとのこと。
ところで、学問とは何でしょうか
私は、自分にとって未知なるものを明らかにしていくことだと考えます。
学問には、社会、化学、生物学、哲学など様々な分野があります。
自分が最も興味を持てる分野で、未知なるものを明らかにしていくことが、生きている限り続けるべき学問となるのでしょう。
子供から、なんで勉強しなきゃいけないのと問われたら、どう答えますか?
楽な暮らしのためだよ、とか、偉くなるためだよなんて言ってしまうと、子供は成績を上げるを目的としてしまいます。
しかしその答えは核心を突いておらず、かわいそうに、その子供は誤った方向に人生の舵を切ってしまいます。
小学生にもなれば、大人の想像以上の理解力を持っています。
だから、少々難解かもしれないと感じても、真正面から肝心要の核心を伝えてあげるべきです。
小学校、中学校、高校、大学においての勉強は基本的な知識を身に付けることが目的であり、それ以降は身に付けた知識を使ってこの世をどう良くしていくか、自分はどう貢献していくか、もっと良くするにはどうすべきかというようなテーマについて、研究を深めていくのが人間の役割でしょう。
そのため、幼少から成人に至る年代までは、既存の知識を学ぶのです。
そして成人してからは、自らの道を深めながら、探求していくのです
成績を上げることを目的とした学校での勉強や、言われたことだけやっていればいいという考えで日々を過ごす成人でしかないのなら、この世に生きる意義を見出すことはできません。
問題を追及し
法則を追求し
真実を追求し
そして
人間を追求し
自分を追求し
社会を追求し
これを続ける
学問とは
そういうことなのでしょう