子曰わく、君子は博く文を學び、之を約するに禮を以てせば、亦以て畔かざるべし。〔雍也第六〕
(先師が言われた。
「君子は博く典籍を学んで知見をゆたかにし、これをひきしめるのに礼を以てすれば、人の道にそむくことはないであろう」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
君子とは
博く文を学んで知見を身に付け
それを礼に従って実行していく人
今日の言葉を言い換えてみました。
単に学問を身に付ければ立派な人物になれるのではなく、実行しなければ、学問を身に付けていない小人と同様、人の道から外れることがあるわけです。
現代を生きる私たちは、学問を身に付けることしかできていません。
学校で学んだ教科を実社会で実行する場面は稀です。
しかし、立派な人物を育てようとすれば、実行できることを学び、実行によって社会を活かすという教育体系、まさしく君子の教育が必要なはずです。
我が国は、戦勝国の米国に家庭や学校での教育を根こそぎ変えられました。
その米国、経済的繁栄を謳歌した現在の姿、果たして望ましい社会でしょうか。
少なくとも、君子と呼べるような人物は見当たりません。
今の日本では、戦前の教育要素の良い所だけを復活させることさえ、表立ってはできないでしょう。
しかし、私的な寺子屋形式であれば可能です。
〝人物〟を育て上げる環境のあり方に気付き、それを実践していかねば、古の知恵はどんどん風化していきます。
新渡戸稲造は、その著書『修養』第二章の「青年の立志」で、「少青年が志を立てるに際しては、仕事を目的とし、名と利とは度外に置くことを望む」としています。
例えば、軍人を望む者の動機が胸に勲章を飾り部下を叱咤する偉そうな姿であったり、政治家を望む者の動機が馬車を駆り国民を前にして演説する姿であったり、実業家を望む者の動機が広大な邸宅に住み高級料理屋で散財し豪遊する姿であったり、というような仕事の本質的な任務ではない “ 付帯物 ” に気を取られるようであってはいけないとのこと。
その仕事本来の任務を認識し
その任務をなすという信念
それこそが〝 志 〟
その上で、多数の中での戦いに勝って頭角を現し、名利(名誉と利益)を得ようという “ 水平的 ” な実社会の関係のみならず、人間以上との関係、具体的には自分の仕事は〝 上 〟からの命であり、〝 上 〟に対する義務であり、〝 上 〟なる者と共に働き、共に結果を楽しむという心の心境、言い換えれば人生における “ 垂直的 ” な関係を意識することが重要であるとしています。
先日、新聞の投書欄に、こんな人生相談が掲載されていました。
“自分の息子は小中高大学と本当に真面目に勉学に励み、生活態度も正しい良い子だった。ところが、社会人になって就職した途端、生活が荒れ、部屋はゴミ屋敷、会社にはなんとか行けているらしいが、食生活もインスタント食品ばかりと一変し、親として愕然としている。どうすれば良いのか” というものでした。
表面的に良い子を繕ってきた反動、つまり真の自分と対峙している時期であろうというような専門家の回答でした。
そうだろうと感じます。
青少年という多感な時代こそ、人生における “ 垂直的 ” な関係に気付き、その大切さを実感するような家庭環境、学校環境、社会環境であることが望まれます。
人を相手にせず天を相手とせよ
天を相手にして
己を尽くして人を咎めず
我が誠の足らざるを尋ぬべし
(西郷南洲翁)