古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の國を治む。其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊う。其の家を齊えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。知を致すは、物を格すに在り。
(昔、明徳を天下に明らかにして平安を来たそうと思う王者は、必ず自分の国をよく治めた。自分の国をよく治めようとして、先ず自分の家をよく調和させた。自分の家をよく調和させようとして、先ず自分の身の修養に努めた。そして身を修めるに当たっては、先ず自分の心を正しくした。自分の心を正そうとして自分の意識や感情を正常にしようとした。その意識や感情を正常にしようとして先ず生まれながら与えられている知恵を極めようとした。そして知恵を極めるというのは、即ち自己を正して本来にかえることである。)
<出典:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>
『大学』の「八条目」です。
初回に紹介した「三綱領」と、この「八条目」が『大学』の中心、骨格となります。
この「八条目」は、今後さらに具体的に深掘りしていくわけですが、全くもって論理的な思考展開と感じざるを得ません。
客観的かつ論理的であり、現代社会で生きる私たちにとって必要な知識であり知恵と感じ入ります。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の國を治む」
古くからの明徳を天下に明らかにすること、これは世の中を平和に保ち、皆で協力し合って生きていくために必要なことです。
これを実現するためには、自らの国を治めることが必要だということ。
国を統治することはあくまで手段であり、目的は〝 国の平安 〟です。
「其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊う」
国をよく治めるためには、まずは自分の家をまとめるだけの度量が無ければなりません。
現代社会は3~4人の核家族が一般的でしょうが、そんな小家族でもまとまっている家というのは多くないでしょう。
それに比べて、古くは親族一同、異母兄弟や召使までもが一つ屋根の下に暮らしていました。
このような大家族をまとめることは、一家の長としてふさわしい徳、認められる人格を持ってなければ、土台無理な話です。
「其の家を齊えんと欲する者は、先ず其の身を修む」
つまり、自分の家をまとめるためには、自分自身が修養に努め、徳や人格を高める必要があるのです。
「其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす」
自分を修めていくには、自分の心を正しくしなくてはなりません。
ここでの「心」とは「内なる心」をさしており、それを正しくするということです。
「其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす」
心を正しくするには、感情を正常に発現させることが必要です。
喜ぶべきことを喜び、怒るべきことに怒り、悲しむべきことに悲しみ、楽しいことは楽しむというように、喜怒哀楽を素直に発現させることです。
怒りや悲しみを我慢して溜めおくようなことは、感情ひいては心を正しくする妨げになります。
「其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す」
感情を正常に発現させるには、「知を致す」とのこと。
ここでの「知」とは「知恵」であり、「致す」とは「極める」ということ。
知恵を極めることで人間の感情を把握、理解します。
自らの感情と心を正しくすることにより、他者の感情を汲んだ対応ができることになるのです。
「知を致すは、物を格すに在り」
「物を格す」ということは「自己自身を正す」ことです。
自己を正すには、自分に与えられている良心、その〝 良心という鏡 〟を澄ましておかねばなりません。
自分が正しいかどうかは、自分を客観的に映し出して判断しなくてはなりません。
そうでなければ、自己中心的な解釈に陥ってしまいます。
つまり、〝 良心という鏡 〟を常に澄ましておき、自分が正しい言動を行っているかを見極めるのです。
そして、至らないところがあれば、「自己自身を正して」いかねばなりません。
この「八条目」を実行していくことは
容易なことではありません
しかし
自らを高めるための
修練、修養として
欠かすことのできない
取り組みと感じます
<参考:『『大学』を味読する 己を修め人を治める道』伊與田覺著 致知出版社>