海水を器に斟み、器水を海に翻せば、死生は直ちに眼前に在り〔晩二九〇〕
(海水を器に汲んで、その器の水を海に返せば、死生の道理はそのまま目の前にある。
※器に汲んだのが水の生であり、海に返したことが死にあたり、道理を意味している。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
死生の道理
命は
生まれ
やがて死に還る
生き続けるのは無理
死に続けるのも無理
死ぬということ
それは元へ還ること
本年一月、還暦を迎えました。
時計の針を逆回りにして、現在から過去に向かって自分の人生を遡ってみます。
色々な人に出会い、助けていただいたと感じます。
コロナ禍の約三年間、人生の密度は高かったのか、薄かったのか、よくわかりません。
それまでは、景気は良かった記憶があります。
長く仕事をさせていただいている取引先も少なからずありますが、十年以上お付き合いした後に取引がなくなる先もありました。
昨年2024年は能登、2018年には北海道、2016年には熊本、2011年には東日本大震災が発生しました。
幸いなことに、私自身や家族に、怪我や家屋などへの損害はありませんでした。
2008年のリーマン・ショック後から遡ると、景気低迷から急上昇して頂点を迎え、そこから徐々に低下、2000年の独立時に至ります。
さらに時代を逆流すると、1990年代後半の実体経済の低迷、そして同前半における好景気、さらには株価と地価が頂点となった1990年となります。
大学四年、三年の時期は、四年間で卒業するために必要な単位取得のために、よく学校に通いました。
大学二年、一年の時期は、ほとんど学校に行かず、音楽に明け暮れる日々、単位を取得した科目は二つだけ。
高校時代も似たような日々であり、学業成績は下の下、さらに下という有様。
中学時代も勉強は授業中のみ、小学校時代も野山、海や川で遊んでばかり。
日々を楽しんでいたことが思い出されます。
あるとき、小学校から帰る道に空き缶が転がっていました。
コンと蹴って道路の脇に寄せてやろうと思いましたが、そのとき不思議な感覚が芽生えます。
この空き缶を蹴ったケースと、蹴らなかったケースでは、明らかに次の一歩を踏む場所が変わります。
すると、家の玄関を開けるタイミングも数秒は相違し、それぞれにおけるその後の過ごし方が変わってくると感じたのです。
蹴るか
蹴らないか
どちらを選択するかで
その後の人生が変わってしまう
もっと広げると、いま水を飲むか否か、いま眼前の蠅を追うか否か、昼食の店をどちらにするか、詳細で無限にある選択によって人生は変わってくると考えられます。
やがて、「パラレル・ワールド」という概念を学んだとき、思い出された感覚でした。
ところで、学生時代にあんまり勉学に励まなかったこと、これは自分にとってプラスになっているような気がしてなりません。
同期生と会うと、学業成績の向上に励んでいた人ほど、無難、ありきたりな雰囲気、平凡な価値観などを感じてしまうのです。
保育園での強烈な思い出
それは男子の小用便器で用を足しているときに、ふと脳裏に思い浮かんだ、真っ暗闇の宇宙です。
死ぬと、こんな真っ暗闇の世界に、何万年どころか永遠に、意識もなく・・・、と考えたとき、心底怖さを感じました。
その前、祖母の家での生活から実家での生活に変わったとき
その前、祖母の家での生活の情景
長屋での二人の生活
愛おしい思い出
その前、記憶がありません。
そしてその前
私は
〝 無 〟
だったのですね