二、三道義の友有り。数日別るれば便ち相思い、以為へらく、世俗の念、一たび別るれば便ち生じ、親厚の情、一たび別るれば便ち疎なりと。余曰く、君の此の語甚だ趣向有り。淫朋、狎友と、滋味迥然として同じからず。但だ真味未だ深からざるのみ。孔・孟・願・思、我が輩平生何ぞ嘗て一たびも接せん。只今誦読体認する間、朝夕堂を同じくして対語するが如く、家人の父子相依るが如し。何となれば、心交り神契ひ、千載も一時、万里も一身なり。之を久しくすれば彼我すら且つ無し。孰れか離れ孰れか合ひ、孰れか親しく孰れか疎からんや。若し相与にして善念生じ、相違ひて欲心長ぜば、則ち旦暮も一生、甚の事をか済し得ん。〔人情〕
(二、三道義で結ばれた友達がある。もう数日も離れておると互いになつかしく思い、一たび別れて独りぼっちになると世俗の念が生じて、相会うて語り合った時のような親密の情がいつの間にか疎くなってしまうと述懐するものがある。
これに対して私は言う、君の言葉はたいへん味があっておもしろい。みだらな友達や動物がなれ親しむような道義を忘れたたわむれの友達とは、精神の糧となる意義がはるかに同じものではない。ただ真の味わいが未だあまり深くないだけである。孔子、孟子、顔子、子思(孔子の孫)はかつてわれわれが一度も接したことがない(あるいは接しようがない)古の聖人・賢人である。しかし、ただ今、そういう人達の書を読みかつそれを自分の身体で認識する時は、同じ一堂に会して差向かいで語り合うようである。また家人の父と子が互いに相依って扶け合うようである。何となれば心が交わり神(心の体)が通い合って、千年も一時、万里も一身で時や処の隔たりがないからである。之(単なる附字で特別の意味はない)を久しくすれば彼と我との対立さえなくなる。離れるとか合うとか、親しいとか疎いとか、いうものが全てなくなって渾然として一つである。若し一緒におると善念が生ずるが別れて独りになると欲心が増長するというようなことでは、うかうかとその日その日の明け暮れで一生を終わって結局何もできない)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
自としっかり向き合い
その上で友と語り合う
このような経験がないと
本質的な意思疎通や
本当の交友は生まれ難いでしょう
自分の想いや考えが、形式だけの上っ面を漂っているのなら、自分を深めることはできません。
美辞麗句が先導する外部の情報、それに右往左往させられるだけの日々になってしまいます。
それはまるで釣り堀の魚のよう
エサが落ちてきたら真っ先に食いつき、引き上げられる。
周りの仲間は、「あいつがいなくなっちゃった、何か良い所に引っ張りあげられたのか?」と感じるかもしれません。
次は私だ、と。
人は、新しい世界を見たいと考え、そう感じるものです。
しかし、新しい世界とは、基本的には “ いま ” と同じ環境です。
違うのは解釈の仕方だけ
肯定的に受け止めれば
素晴らしい環境と感じる
否定的に受け止めれば
前より悪い環境と感じる
そのときの〝 心 〟の有様で価値が変わるのです。
浮ついた心なら、そうなります。
〝 心 〟を放っておくと、その時々で違った捉え方をします。
〝 心 〟を正しく扱わねば、自らが “ 猿回しの猿 ” になりかねません。
心を師とせず
心の師となれ
良い知恵を手に入れる起点は、自分と真剣に対峙することです。
所謂其の意を誠にすとは、自ら欺く母きなり。
惡臭を惡むが如く、好色を好むが如し。
此を之れ自謙と謂う。
故に君子は、必ず其の獨を慎むなり。
(八条目に「其の意を誠にす」というのは、自分が自分を欺かないことである。それは丁度悪い臭をかいだら本能的に鼻をすくめ、好きなよい色を見れば、本能的に目を見開いて見ようとするようなものである。これを自らあきたる「自謙」(謙は慊に通ず)というのである。そこで君子は必ず自ら自分で独りを慎むのである。)
<引用:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>
現代の情報・知識社会においては、多くの人が自分を良くすることに関心を持っています。
一方、古の先人たちは、社会全体の安寧と将来・未来の子孫達の社会を良くすることを慮っています。
前者はさもしく映り
後者が高尚に映るのは
私だけでしょうか
今の世の中で本当に良いのでしょうか
自分とは何か
相手との関係は
世の中を良くするには
思いを馳せる必要がありはしないでしょうか
私たちは
もっと慎獨を深めなければなりません