勢・利・術・言、此の四つの者は、公道の敵なり。手を炙りて熱す可ければ、則ち公道為に屈す。賄賂潜に通ずれば、則ち公道為に屈す。智巧陰に投ずれば、則ち公道為に屈す。毀誉肆に行はるれば、則ち公道為に屈す。世の幸を冀ひ誣を受くる者、啻に金の五のみならざるなり。慨す可きかな。〔人情〕
(権勢・利欲・智術・言論の四つは公道 ― 公人として実践しなければならぬ道の敵である。手をあぶってちょっと相手の手をあたためてやることができると、言い換えればこちらの熱望するところを相手に通ずることができると、すぐ公道を屈してしまう。袖の下・鼻ぐすりを利かせると、公道を曲げてしまう。巧妙に知恵をこっそり働かせると、公道が屈してしまう。そしったりほめたりすることが勝手放題に行われると、公道は引っ込んでしまう。
世の僥倖を得ようと考える、あるいはその反対に恐ろしく事実を曲げて誣告されるというようなことの半分以上が(公道為に屈すというようなことで)この世の中に行われておるのである。実に嘆かわしいかぎりである。)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
安岡師は
昔も今も少しも変わらないとのこと
公人としての心得となっていますが、この国を大切に思う人すべてにとって重要な課題といえます。
❛ 権勢 ❜ は危険です。
正しくも悪くも、❛ 権勢 ❜ は抑制すべきです。
もちろん、公道に違う方向の ❛ 権勢 ❜ が増すことには特に注意が必要です。
安岡師も指摘していますが、この ❛ 権勢 ❜ を増幅させてきたのがマスコミの威力と言えます。
視聴率や発行部数の増大、つまり ❛ 利欲 ❜ のために、〝 公 〟の概念のない策略や ❛ 智術 ❜ が盛んになっているのです。
これが言論の自由だ、自由主義だというのなら、それそのものを見直す段階に入っています。
おそらく、多くの人がそう感じているでしょう。
また、何も手立てがないと感じているでしょう。
現代の日本社会、いや世界的にも〝 公 〟の概念が失われてきています。
社会が乱れてきたのはなぜでしょうか。
やはり、半世紀ほど前から、先進国を中心に知識社会に向けた教育体系、つまりは詰め込み教育、記憶学習が中心となり、道徳的概念としての人間学が疎かにされてきたからでしょう。
その教育体系は、自分の頭で考えようとしない人々を大量に生み出しました。
そしてそのような人々に対して、小賢しい悪人がsnsなどを利用して洗脳しているのが現実です。
snsで発せられる異様な意見を擁護する人たちにその理由を尋ねてみると、意見の上塗りであったり、主観だけの意見であったりがほとんどです。
要するに、正しいとされたことを盲目的に学んできただけであり、自分の頭で考えて検証する知見を持っていないのです。
思考の幅は狭く一本道、第二、第三の観点を持てていません。
善人、悪人、大人は、自らの主張、その色を持っています。
しかし、小人には主張がなく色がありません。
その小人に、悪人の発する極端かつ一方的で強い意見が押しつけられたら、木端微塵でしょう。
正論に対しては邪な言を用い、逃げ口上を操る悪人のパワー(勢)に押し倒されてしまいます。
古今東西、公道を無視した ❛ 邪悪 ❜ のパワーは強いものです。
だからこそ悪は押さえつけておく必要がある
もしも、仁・義・礼・智・信に基づく道徳的な教育に重点を置いていたなら、もっと多くの人が安心・信頼できる国家のリーダー、大企業のリーダーが生まれていたのではないでしょうか。
この章の最後に、安岡師はこう述べられています。
「確かに勢・利・術・言の四つは現代においても公道、公共生活の敵である。今日の日本もその公道の敵である勢・利・術・言がほしいままに横行しておるのでありまして、決してこれは呂新吾の昔の時代特有のことではない。今日もこの通りであることがしみじみ感じられる。まことに慨すべきかなであります。」
抗い難い状況に見舞われている日本
そして世界
大多数の人々の心から
〝 公道 〟が失われつつある現代は
相当に危機的な状況です
いかにして〝 公道 〟を生かしていくか
多くの人が
真剣に知恵を出していかねばなりません