凡そ人は、少壮の過去を忘れて、老歿の将来を図る。人情皆然らざるは莫し。即ち是れ竺氏が権教の由って以て人を誘う所なり。吾が儒は則ち易に在りて曰く、「始めを原ねて終りに反る。故に死生の説を知る」と。何ぞ其れ易簡にして明白なるや。〔晩二八六〕
(だいたいにして世の人は過去の少壮の時代を忘れ、将来の老いや死について考える。それが人情の常であって、すべてそうでないものはない。即ちこれは仏教がその教えによって人を惹きつける理由となっている。わが儒教では『易経』に「生命の始めをたずねてゆけば、死の終わりに返っていく。そこから人の生死の理(儒教の死生観)を知ることができる」とある。なんと簡潔にして明瞭であることか。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
生死
まったくわかりません
それなのに、年を取るに従って老いや死を考えることしきりです。
考えても仕方ないことでしょうが。
易経では、人の生死の理を知ることができるとのこと。
ただ、それを日々の暮らしに当てはめることは、なかなかできることではありません。
易経には、次の言もあります。
天地の大德を生という
〔繫辞下伝〕
(天地の徳の中で、最も大きなものを生という。
天地は生きとし生けるものをしっかりと生かすために規則正しく循環し、絶えず生成発展している。)
<出所:『易経一日一言』竹村亞希子著 致知出版社>
私たち人間には覗き見ることのできない天地の循環、それが “ 生 ” と “ 死 ” なのでしょう。
一般に、死ぬことは恐いものと考えがちです。
死んだらどうなるのか
真っ暗闇の中
自分という意識が消える
永遠に復元しない
この恐怖心に縛られてしまうと
“ 死 ” の捉え方を誤り
自らを苦しめ続けます
私自身の死生観、それは弱いものでしかないのですが、中村天風師の次のような考え方を大切にしています。
それは、自分の人生について、生を重点として考えるのではなく、死を重点として考えるということです。
師は、生を重点にすると生に対する執着念が燃え出すとされ、確かに納得できます。
そして、死を重点にすると、いまこのように生きていることに対する有り難さが湧き上がってくると言います。
これも十分納得できることであり、切羽詰まってもうダメだというときでも、「まだ生きている。ありがたい」と思えるわけです。
いま自分は生きているということ、これをただありがたく感謝して生きるわけです。
さらに師は、「生きていられることに感謝できる気持ちを持って生きる」ことは〝 哲学 〟であるとのこと。
そして、生に感謝している人は「生きてる気持ちを持った人間」であり、死ぬことばかりに囚われている人は「死んだ気持ちを持った人間」とのこと。
<参考文献:『信念の奇跡』中村天風述 公益財団法人 天風会>
私の死生観とすると、この 「 “ 生 ” に感謝すること」を、今の自分の “ 生 ” の中で表現、体現していきたいのです。
天地の大德で
たまたま “ 生 ” を得た自分
それに感謝し
あらゆる生物の “ 生 ”
それを素晴らしいものにするために
思い切り働く
その時間が終れば
重点である “ 死 ” に還る
ただそれだけのこと