樊遲、知を問う。子曰わく、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。曰わく、仁者は難きを先にして獲ることを後にす、仁と謂うべし。〔雍也第六〕
(樊遲が知について尋ねた。
先師が答えられた。
「民として正しい道を履み行い、神を敬うが遠ざけて頼らない。これを知というのだ」
更に仁について尋ねた。
先師が答えられた。
「仁者は、労苦を先にして利得を後にする。これが仁というものだ」)
※樊遲、姓は樊、名は須、字は子遲。
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
民として正しい道とは
身の回り、住む環境を整え、世の中を良くしようと仕事をする
誠心誠意、仕事を正直に行い、お客様、取引先、同僚たちを支え、さらに喜んでもらう
仕事以外では、友人、知人、親類たちに役立つことを行う
助言が可能なら行い
充分に話を聴く
他方
仕事などはマニュアルどおりで十分
誠心誠意なんて伝わりづらいし非効率
品質が及第点なら文句は出ないはず
取引先や同僚を支える責任など無い
彼らを喜ばしても何の得もない
休日に収入の無い人助けなんて損
なんでそんな役回りをしなくちゃいけないのか
前者と後者の根本的な違い
それは
自を絶対的存在として扱うか
相対的存在として扱うかです
前者は、自を絶対的存在として扱っており、周りの人の目でなく、人として、民として正しい道を進んでいます。
後者は、損か得かが中心であり、他人と比較することによる価値に重きを置いています。
もともと比べる人がいなければ、自分一人ならどうするのでしょう。
おそらく正しい道を生きていくのでは。
しかし、周囲からの影響を受けるあまり薄っぺらな価値観の視点に縛られてしまう。
前者は
正しい道を見出して
絶対的な存在として
能動的に生きる人生
後者は
周囲と比較する
相対的存在として
受動的・受け身で生きる
まるで借り物のような人生
前者は
眼前の問題や困難に立ち向かい
周囲をより良くしようと試みる
後者は
自分がどう見られるか
損か得などということを気にする
善悪基準で行動するか
損得勘定に縛られるか
“ 知 ” の人
そして
“ 仁 ” の人で
ありたいものです