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COLUMNSブログ「論語と算盤」

心の値打ち

2025年2月4日

のたまわく、ちゅうじん以上には、もっかみを語るべきなり。中人以下には、以て上を語るべからざるなり。

(先師が言われた。

 「中以上の人には、高遠な哲理を説いても理解されるが、そうでない人には、難しい。」)

<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

 

 幼い頃から気がかりなことがありました。

 

大変便利なのですが、反面とても心配したものです。

 

それは、蛇口を捻れば水が出る仕組み、つまり水道です。

 

 

貧しい国では、一口の水さえダイヤモンドよりも貴重なものなのに、日本では安全に飲める水がすぐにたくさん用意できます。

 

私が生まれた地区には、農業、漁業、お店、会社員など、色んな人が住んでいて、それらの家全てが水に困ることはありませんでした。

 

 

ただし私は、根本の部分にトラブルが起きたら、つまり水道局で異物が混入したり、途中の管が破損したりしたならということが心配だったのです。

 

そうなると、相当に多くの人々が困ることになり、命の危険に晒される事態も生じるかもしれません。

 

そう心配しながら表通りを見ると、まったくもってお構いなしで、皆が日常の生活に勤しんでいます。

 

 

 

一寸先は闇

 

 

 

 そんな私も学生を終えて社会人になったら、活躍したい、成功したいという自己実現欲に振り回され、社会基盤への関心が薄れてしまいました。

 

しかし時折、至る所で現代社会のもろさがその片鱗を見せているように感じます。

 

それは物質的な社会基盤だけでなく、人の心のちん化やたい化もその危うさの芽であり、下水管の破裂による道路陥没、自動車や航空機の事故、理由の見えない殺人など、社会の変化の〝兆し〟として現れてきているようです。

 

 

 

 21世紀になった現代、家族や地域、全国民、全人類で、お互いを助け、助けられ、皆で平和な世界を創り上げていくことが必要なはずです。

 

しかし、このことを20歳代の私に諭そうとして、果たして納得するでしょうか。

 

血気盛んなそのころ、恐らく実感もできず、心に入っていかないでしょう。

 

 

この原因は、幼少時の教育のあり方によると感じます。

 

江戸時代から明治における子供の教育は、まさに、〝いかに生きるか〟を説くものでした。

 

多くの人が若い頃から、今日の言葉にある「中人」以上に成長していたはずです。

 

 

それが昭和に入り

特に戦後教育によって

物質的競争に勝つことを目的として

私たちは躾けられてきました

 

少なくとも

人並みの労働力に

作り上げようと

 

 

しかし、その結果の状況は決して美しいものではなく、逆にますます危うさを高めているようです。

 

 

 

めるといえどこころおおきはよく

これを名づけて貧人ひんにんとす

まずしきと雖も心ほっせばれり

是を名づけてじんとす

 

(お金持ちでも貪欲な人はむしろ

  貧しい人といっていいでしょう。

お金があまりなくても心が満ち足りている人は

  豊かな人といっていいでしょう)

 

<出所:『子供と声を出して読みたい「童子教」』齋藤孝著 致知出版社>

 

 

 

私たちは

心の値打ちを

高めていかねばなりません

 

人類の今までの歴史は

間違いなく

心の値打ちを

上げられていないのですから