大怨を和すれば必ず餘怨有り。安んぞ以て善と爲すべけん。是を以て聖人は左契を執りて人に責めず。德有れば契を司る。德無くば徹を司る。天道親無し、常に善人に與す。〔和大怨章第七十九〕
(恩怨ともに忘れるところまでいかないその場合、わたしに対してひどい怨みを持っているもの、それと和合したいと思っても、やはり怨みは怨みとして残るものである。だから怨みを和するというそういう行為は、けっしてよいやり方とはいえない。
そこで聖人は、ことさらに怨みを和睦しようというのではなくて、割符の左半分を持ちながら、契約そのものを忘れて、人に対して請求しようとしない。
ほんとうに徳のあるものは、割符を持ちながら支払いを求めない。
徳のないものは、ひたすら借り貸しの勘定をはっきりさせようと求めるものである。
天の道にはえこひいきはない。けれども究極的には、割符を持ちながら支払いを求めないような善人、これに常に味方する。)
※「左契」とは、今の人の割符のようなものである。債権者は左半分を持ち、債務者は右半分を持つ。そこで左半分のことを左契という。
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
天を相手にして生きていく
これが最も大切で必要な心掛けと思います
恩怨を持って生きていくのは嫌なものです。
朝から心がすっきりしないでしょう。
他者から何かをされた怨み
他者に何かを施してあげた恩
ともに何らかの見返りを
期待してしまいがちです
その見返りがないと、心のバランスが乱れてしまう。
しかし
それら全てを忘れられるのであれば
心はバランスを取り戻し
朝から爽やかに過ごせるでしょう
そして天は
そのような
見返りを求めない人の
味方になってくれるのです
考えてみれば、恩怨を持ち続けた人が大成したというような話は聞いたことがありません。
恨みや恩返しに執着するのは、自分の心の中心軸を捻じ曲げてしまい、心の成長や発展を妨げます。
伊勢神宮の禰宜である吉川竜実氏によると、「神道では、人は生まれながらにして、完璧で清浄な存在だと考える」とのことです。
<出所:『一番大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』吉川竜実著 サンマーク出版>
怨みや恩返しを求めるような心は穢れから生じたものなので、お祓いによって清めれば良いとのことです。
それによって、元の生まれたままのような完璧で清浄な存在に立ち返ることができるのです。
こんな心掛けができれば、対人関係での悩みなどほとんど失せてしまうでしょう。
他人を敬い
助けてあげる
これは
現生を生きる者同士の
自然な行為であり
他の何ものでもありません
反対に
他人の足を引っ張ったり
邪魔をしたり
傷つけたり
時には犯罪まで及ぶ
これらは不自然な行為
穢れの極み
自分の心と対峙して語り合い
そして天に教えを乞う
所詮100年ほどの人生ですから
完璧で清浄な存在のまま
全うしましょう