世の衰ふるや、卑幼賤微、気高ぶり、志肆にして上を無みす。子弟は父母有るを知らず。婦は舅姑有るを知らず。後進は先達有るを知らず。士民は官師有るを知らず。郎署は公卿有るを知らず。偏裨軍士は主師有るを知らず。目は空々として気は勃々たり、分義を恥ぢて陵駕を敢てす。嗚呼世道此に至れば、未だ乱れず亡びざる者有らざるなり。〔治道〕
(世の中が衰えると、年少者や身分の低いものはみな気が傲り高ぶって、心の向かうところをほしいままにし、何でもやりたい放題で、上をないがしろにする。若いものは父母のあるを知らない、嫁はしゅうと・しゅうとめのあるを知らない、後進は先輩のあるのを知らない。諸々の民は官の長官のあるを知らない。軍隊においては、部下の将校は司令官・総大将あるのを知らない。
目はうつろで客気ばかりが大層盛んである、己れの分、またその議に従って守るべき道義を恥じて上をしのいで平気である。ああ、世の中の道がここまで廃れて尚乱れず亡びなかったという国は未だかつてないのである。)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
多くの人々が自信を失うと
世の中全体が不安に覆われます
今までのやり方や仕来りは
通用しないのか
誤りだったのか
と
江戸時代から明治、大正、昭和、平成、令和・・・
時代が進むにつれて、社会の乱れを危惧する人が徐々に増えてきているのではないでしょうか。
安岡師は、「まだ昭和の初め頃までは、いやしくも上役がこうするといえば部下は一応みな忠実にこれに従ったもの」とのこと。
それから100年近く経った現在、もはやそのような状況を見ることも稀になりました。
我が国は
このまま亡びるのか
自分の心に聞いてみてはどうでしょう。
私は、目上の人の言に盲目的に従うこと、それが正しいとは考えません。
しかしその一方、目上の人や年長の人が培ってきた経験や知見については、敬う気持ちを持っているつもりです。
だから、特に年配の人の言葉については、進んで耳を傾けてきたつもりです。
そういう〝日本を生き抜いてきた日本人の思い〟
それに納得できれば、今度はそれを自分の背骨の一つに取り込んできたような気がします。
現在、社会の多くの場面で昔ながらの習慣や仕来りが、検証されることなく誤ったままあるいは中途半端な形のまま生き延びています。
法曹の世界では、勝訴とか敗訴とか言いますが、裁判の場は勝ち負けを決める闘いの場ではないはずです。
真実の追求の場であるべきと考えますが、そのことが軽んじられているようです。
農業の世界では、過去の状況下において、米を特別なものとして扱うべきとして、神経質に管理してきたのが裏目に出ています。
食管法は、農業を衰退させて廃業に向かわせるための法律ではないはずです。
いま、日本国外において、日本の米や日本酒の需要が高まってきています。
早々に方向転換が必要ではないでしょうか。
テレビや雑誌などメディア界では、言論の自由を盾に、自分たちは特別な存在であるかのような振る舞いが目に余ります。
メディアのあるべき姿とは、破廉恥さを具体化して国民に見せ付けるためだけの存在なのでしょうか。
このように、弊害が大きくなってきた諸制度、仕来り、因習などは、適切に改廃していくことが望まれます。
自ら創り上げてきた自分の背骨を判断基準として、より良い日本に向かって進むよう、舵を切らねばなりません。
どんなに国難が迫ってきたとしても、日本人のアイデンティティーが確立されていれば、怖いものはない。
言ってみれば、アイデンティティーをなくすことが最大の国難なのである。
<渡部昇一(1930~2017)山形県出身 上智大学名誉教授>
日本を創り上げてきた先人の思い
それこそが私たちの背骨であり
アイデンティティーです