子曰わく、之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。
(先師が言われた。
「知る者は、好んでやる者には及ばない。好んでやる者は、楽しんでやる者には及ばない」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
論語の中でも
よく引用される言葉の一つです
一つの分野で仕事をしていくと、一通りのことは身に付きます。
それを〝好き〟と感じる人は、ただ一通りの手順を理解しただけの人よりは、上手く、早く、正しく、美しく行えるでしょう。
また、〝好き〟というより〝楽しい〟と感じる人は、ただ好きでやっている人よりもその道を究めることができるでしょう。
一つの道を究めようと特定の分野に飛び込んでも、楽しさを感じられなければ長続きはしません。
職業を自由に選択できる日本を含む国々では、退職して別の道に入り、そこで楽しさを見出すことも可能です。
その方が、社会に役立つ仕事ができるはずです。
そして
全ての人が楽しく学び
楽しく仕事をしている状況は
とても素晴らしいことだと思います
しかしながら、何ともムダな〝風習〟が至る所にあり、その代表格の一つが偏差値教育です。
偏差値を上げるためだけの勉強、それを楽しむどころか好きという学生はいったいどれくらいいるのでしょうか。
やりたくないのに
周囲の無言の圧力により
覚えるだけの勉強をせねばならず
その覚えることを競う日々
それらが人生において役に立つ場面はほぼありません。
もはや私の中では大昔になりましたが、小学生のころ、遠い場所へ野球の試合に行くとき、バスよりも4人で乗る方が安いということで、タクシーで向かいました。
運転手さんが「因数分解なんてものは、大人になったら絶対使わないものだよ」と言い、友人が「そうですよね、勉強なんかしたって役に立たないですよね」と賛同していました。
私はそのとき「そうでもないんじゃないのかな。算数は結構おもしろいものだし」と感じました。
結論、社会人になってから、ほぼ使っていません。
職業柄という理由もあるでしょうが。
そんな私も、意義を見出せなかった微分・積分の勉強では挫折しました。
「何のために」という意義を教えてくれていたら、例えば、これによって人工衛星のコントロールや太陽系の惑星の周期さえ把握できるのだなどと、ロマンや魅力を感じられれば意欲を持って学べたかもしれません。
結論を申し上げると、社会人になって微分を使う必要が生じたため、改めて勉強し直しました。
そして実は、楽しさも感じている次第です。
なぜ偏差値教育が盛んになったのでしょう。
おそらく昭和30年代以降、欧米に追いつけ追い越せという意欲と情熱が国中に溢れていたからだと思います。
そのおかげで日本人の学力は上がり、偏差値もそして経済力も世界トップクラスになりました。
その後、1990年のバブルの頂点を迎えて以降、これで良いと安心したかのように意欲は薄れ、情熱の微塵もないモノトーンの景色が広がる社会になっていきました。
いまの日本は、偏差値も経済力もどんどん落ちてきています。
もっともっと、もっともっと落ちるでしょう。
楽しくないから仕方ありません
しかし
そこからが新たな始まりになるはず
そのときこそが
新しい一歩を踏み出す
ターニングポイントになるはず
それは
好きと感じる
楽しいと感じることを
日本人一人ひとりが見出して
情熱とともに真っ直ぐに進んでいく情景
こどもの頃の純真さや無邪気さ
それが人生において最も大切な要素
それを改めて教えてくれた
今日の言葉です