天下の柔弱は水に過ぎたるは莫し。而うして堅強を攻むる者、之に能く勝つ莫し。其れ以て之より易きは無し。弱の強に勝ち柔の剛に勝つ、天下知らざる莫し。能く行う莫し。故に聖人云う、國の垢を受く、是を社稷の主と謂う、國の不祥を受く、是を天下の王と謂う、正言は反せるが若し。
(天下でもっとも柔らかく、もっとも弱いもの、これは水に過ぎるものはない。しかるに、堅く強い堤を崩す場合、水より強いものはない。弱が強に勝つということ、水ほどはっきりみえるものはない。
弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが逆に堅いものに勝つということ、これは天下の人々、知らないものはない。知ってはおるけれども、これを実行し得るものはない。
そこで古の聖人は、次のような言葉を残している。
国中の辱め、あるいは侮り、そういうものをわが身一身に引き受けるもの、これこそが一国の主といい得る。それから全国の災難、不吉、これを一身に引き受けるもの、これこそが天下の王者といわれるべきものである、と。
ほんとうに正しい言葉というのは、いつも常識と正反対のように聞こえるものである(しかし、これこそが真理である)。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
弱い者が最も強い
私は
弱い者こそが最も強くなれると考えます
自分の弱さの中で、じっと黙って周囲を見渡し、おどおどしながら、びくびくしながらかもしれません、様子をうかがい、世の中の構造、人の美しさや汚さを知っていくのです。
こうやって人生を歩んでいくと、全てのことが見通せるようになるでしょう。
ただ、途中で自分の力を見せびらかしてはなりません。
常に忍んでおかねばなりません。
強者としての振る舞いは、人間としての弱さの現れそのものですから。
強者は、自分を強く見せることに腐心し続けるしかありません。
周囲から一目置かれようとすることが必要であり、はやし立てられればそれに応じていかねばならないのです。
それができなければ、強者としての立場はその瞬間に終わりです。
つまり強者とは、吐き出す一方で学ぶことができないのです。
では真の強者とは
一体何が強いのか
それは心・精神
日頃強がっている者は、重要な場面で情けない態度をさらけ出します。
「かつて京都大学の会田雄次先生から聞いた話だが、戦場ではヤクザと料亭の主人ぐらい臆病な者はいないのだという。料亭の主人は接客業だから勇敢でなくてもいいが、勇敢であるはずのヤクザが臆病だというのは非常に面白く感じた。それはなぜなのか。
ヤクザが普通の人を脅すのは、相手が絶対にやり返してこないと知っているからである。ところが、戦場ではそうはいかない。やれば必ずやり返される。それがわかるから、ものすごく臆病になってしまう。」
<引用:『人生を創る言葉』渡部昇一著 致知出版社>
強弱ではなく、順境と逆境でも同じです。
順境を来た者は脆いものです。
逆境を来た者は、様々な障害を当然のように受けとめ、乗り越えていく、切り拓いていくという気力を常に持っています。
今日の言葉、最後の部分には強く共感します。
政において、賛同を楽に得ようと、つまり選挙で票を集めようと国民に阿る、迎合するような甘言の政策を掲げるのは、稚拙で浅薄な輩の傲慢さの現れです。
今の日本も、与野党問わず、その程度の政治家ばかりと言っても過言ではないでしょう。
真の強者は、真実を見つめ、国家のあるべき姿を打ち立て、そこに国民を牽引していく者です。
どんな反論や辱めを受けようが
人々の心の奥底で共鳴する信念
それを貫き通す
そんな真の強者・勇者の出現が待たれます