如今の天下の人は、之を驕子に譬ふ。敢て熱気唐突せざれば、便ち艴然として怒を起す。縉紳は稍綜核を加ふれば、則ち苛刻なりと曰ひ、学校は稍巌明を加ふれば、則ち恩寡しと曰ひ、軍士は稍斂戢を加ふれば、則ち凌虐すと曰ひ、郷官は稍持正を加ふれば、則ち践踏すと曰ふ。今、縦ひ敢て怨に任ぜずとも、而も公法を廃して以て恩を市ることは、独り已むべからざるか。如今の天下の事は、之を敝屋に譬ふ。軽手推し扶くれば、便ち愕然として舌を咋む。今縦ひ敢て更張せずとも、而も毀折して以て滋々壊るることは、独り已むべからざるか。〔治道〕
(今の天下の人はちょうど気の驕っただだっ子のようなものである。だしぬけに興奮して、あっというようなことをやらかさないでいるかと思うと、今度は顔色を変えて腹を立てる。ある程度地位・身分のある人間はちょっと事の本末をすべ括って調査し、明らかにしようとすると、やかまし過ぎる、きびし過ぎるという。学校は少し厳しく学生に対して監督しようとすると、思いやりがないという。軍隊の士官、兵隊は少し斂戢(斂も戢もともに「おさめる」という意味)、つまり訓練して軍規を正そうとすると、権限を越えていじめるという。地方の役人は(地方の役人というものはとかく金持ちや有力者などと結託して堕落しがちであるから)少しこれを正しくしようとすると、(中央が地方を)蹂躙するという。
今、たとえあえて人から怨まれることを覚悟しなければならぬというほどではなくても(大臣・大官といった政治の局に当たるものの一つの使命は〝怨みに任ずる〟ということです。正しい政治を行おうとすればどうしてもつまらぬ人間や利害の密接な人間から怨まれる。だからいやしくも人の上に立つものはあえて人から怨まれるということを覚悟しなければならないわけです)、すでに定められている現行の国法を廃して私恩を売るというようなことがどうして止められないのであろうか。(なぜ昭々と法に照らしてもっと厳しくできないのか)今の天下の有様というものはちょうどボロ屋と同じことである。ちょっと手を軽く当てて扶けてやろう(つっかい棒をしてやろう)と思うと、驚きうろたえて舌を噛むというぐらいがたがたになっておる。今、たとえあえて建て直しをしなくても、放っておけばますます破壊してしまうという状態は、もうどうにもならないことであろうか)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
安岡師は、「今日の日本は見渡すかぎりすべてここに書いてある通りですね。到底昔のこととは思えない。」と語っています。
本当にそう感じる次第です
先日の新聞で、未来に希望が持てるかという国別の調査結果を見ました。
それによると、いわゆる発展途上にある東南アジアの国々では未来に希望が持てるという回答が多く、日本は最少という結果が示されていました。
また、東南アジアの人々は、より高度な仕事で豊かになるよう努力していけば未来が拓けると考えており、目標をしっかり捉えた上で邁進していこうとしています。
恐らく日本の高度成長時代のように、24時間活き活きと働いて夢を実現するという意欲がみなぎっていることでしょう。
一方で日本は、間違いなく今後、GDPによる豊かさの指標で凋落の一途を辿るでしょう。
働き方改革というような足枷があれば、アニマル・スピリットは生まれません。
また周知のように、ちょっとした叱責、やや厳しい指導、冗談のつもりのひと言などが、○○ハラスメントとして大悪のように論じられます。
今はその〝ハシリ〟の時期なので、人々のやる気や意欲を削ぐ力が強くなりすぎています。
様々な規制や法律で、がんじがらめに手足を縛られる現代、組織としてのビジネスの成功は期待できません。
ある程度の無法状態であり、かつ目標が明確になったなら、人はフロンティアを探して冒険するものです。
しかし、考えてみるとこの流れもやむを得ないものかもしれません。
そんな中、私たちの日本は、今までとは違った豊かさを見出していかねばなりません。
それと同時に、国際的な影響力として上位を維持し続けることが必要です。
それは、日本人が有する秩序、仁、義、礼節は世界に類まれな特質であり、これらが軽視されることは人類全体にとって損失になるからです。
経済面の優位性の確保では、GDP(国内総生産)を上げる努力はもはや徒労となるでしょう。
伸びる国や企業への投資や育成など、GNI(国民総所得)の拡大に舵を切らねばなりません。
東洋古典の『大学』には次のような一説があります。
仁者は財を以て身を發し
不仁者は身を以て財を發す
(仁者は財を世に施してその身をおこすが
不仁者は身を犠牲にして財をつくる)
<引用:『『大学』を素読する』伊與田覺著 致知出版社>
私たち日本人には
人としての価値を磨き
人類をより良い世界へ導いていく
そういう役割があるはずと考えます
意欲の湧く目標を定め
邁進していきましょう