天の道は其れ猶お弓を張るがごときか。高き者は之を抑え、下き者は之を擧ぐ。餘有る者は之を損し、足らざる者は之を補う。天の道は、餘有るを損して足らざるを補う。人の道は則ち然らず、足らざるを損して以て餘有るに奉ず。孰か能く餘有りて以て天下に奉ぜん。唯有道者のみ。是を以て聖人は爲して恃まず。功成りて處らず。其れ賢を見わすを欲せず。
(天の道というものは、弓に弦を張ったままの状態でおいた、それと同じである。
反りの高い所は、おのずから抑えられる。反りの低かった所は、自然に上がってくる。つまり平均した形になってくる。力のあり余った部分は、みずから力を減らすであろう。力の足りなかったところは補われるであろう。
弦を張った弓におけるがごとく、自然の道というものは、余りある所を減らし、足りない所に補ってやる。これが天の道である。
それに対して人間の生き方は逆である。足りない所から削って、あり余っている所に奉仕しようとする。これが人間の生き方である。自分に余りのあるもの、それを持ってきて天下に奉仕すること、だれがそれをよくするか。それは道をわきまえた人だけができることである。
そういうわけで聖人は、何か天下に対してなすところがあっても、その手柄を自慢しない、成功してもその手柄が自分のものだとはいわない。
そもそも自分の優れた能力、それをひけらかすことを聖人は欲しないのである。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
財を得たならもてはやされ
手柄を上げれば煽てられる
そこに傲が生じたら、身を滅ぼしかねません。
もっと、もっとと、弱者から吸い上げる行為さえも正当化してしまうでしょう。
これが一国の王であれば、その国が永く続くか否かは明らかです。
一方、もてはやす側の心も素直ではありません。
褒めて持ち上げ、心からの称賛であるかのような振りをする。
おこぼれに与ろうという企てがあるかもしれません。
あるいは、調子に乗せておいて、滑り落ちることを期待しているのかもしれません。
やはり大切なのは、本人の心次第です。
褒められよう、おだててもらおうとしたのか、もしそうなら、他者の価値観に合わせようとする試みであり、陳腐でしかありません。
やるべきことをやった上で成功した、うまくいったというのなら、おだてに乗る理由はないはず。
また、次のやるべきことに進むだけでしょう。
所詮、短い人生なのですから。
昆虫から人間まで、生き物というものは、数日から数ヶ月、数年、数十年、それ以上、それぞれに生の時間を与えられています。
その中でも人間だけが、おだてに乗って踊り、自分の道を間違ってしまう生き物です。
一方、例えば蜜蜂は、花から花へ飛び、受粉の手伝いをし、花はやがて実をつけ、それを動物が食べるという、壮大な生命のつながりに貢献しています。
たった30日前後の寿命の中においてです。
このような行為にこそ
感謝、尊敬する
それが人の道
人間は、文句を言わない小さな生命、山や川という自然から、たくさんのものを搾取して消費し、自分たちの居心地を良くしてきました。
我々は、弱者に譲っているでしょうか。
そうだとしてもそれは充分でしょうか。
今日の言が
天の道であるのなら
我々人類の将来は
確実に見通せています