人の齢は、四十を踰えて以て七八十に至りて、漸く老に極まり、海潮の如く然り。退潮は直退せず、必ず一前一卻して漸退す。即ち回旋して移るなり。進潮も亦然り。人人宜しく自ら験すべし。〔晩二八二〕
(人の年齢は四十を超えて七十、八十になると、ようやく老いも極まってくる。これは海の潮流と同じようなものである。引き潮は一気に引いていくのではなく、必ず寄せては返しを繰り返しながら少しずつ引いていく。
すなわち、めぐり回りながら移っていくのである。上げ潮もまた同じである。本当かどうか、人々は自分が年をとる時に試してみればよい。)
<出典:『言志四録 佐藤一斎』渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
寄せては返す波
潮が引くときはこれを繰り返し
徐々に海岸線が遠ざかっていく
老いもそれと同じようなもの
確かにそうでしょう ・・・、傍目には
そう私は考えたいと思います。
寄せては返すことを繰り返し
自然の流れでやがて消えていく
大自然の摂理かもしれませんが、まだまだ藻掻かねば。
他人に誇れるほどの
挑戦などできていませんが
幸いながら
五体満足で
この世に生まれ落ちた自分
もっとこの世のために活かしたい
もちろん、潮が満ちるときのように、寄せては返すことを繰り返しながら、海岸線を近づけるようなことは、もはやできません。
しかし
知識、知恵、感情
人生の満潮時に
自分の五感で得られたこれら全ては
退潮しつつある
自分のこれからの人生における
挑戦の礎になるはず
自分の経験から得られた
それら全ての価値を
仕舞い込むのは勿体ない
穏やかに過ごす
傍目には優雅で素敵なことでしょう
しかし
色褪せた表面的なだけの価値観に
自分の内面までを
埋もれさせるつもりは
毛頭ありません
一人ひとりは間違いなく
釈尊のいう
“ 天上天下唯我独尊 ”
なのですから
自分の
個性
可能性
生きがい
やりがい
挑戦
これらに大人しく蓋をすることなく
逆に練り上げていかねばならない
六十、七十はなたれ小僧
男盛りは百から百から
急くな急ぐな来世もあるぞ
六十、七十はなたれ娘
女盛りは百から百から
急くな急ぐな来世もあるぞ
(彫刻家 平櫛田中)