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COLUMNSブログ「論語と算盤」

柔軟

2024年12月3日

人の生くるや柔弱なればなり。其の死するや堅強なればなり。萬物草木の生くるやじゅうぜいなればなり。其の死するやこうなればなり。故に堅強なる者は死の徒。柔弱なる者は生の徒なり。ここを以て兵強ければ勝たず、木強ければ共す。強大は下にり、柔弱は上に處る。〔人之生章第七十六〕

(人が生きているということは、その肉体の各部分が柔らかく弱々しい。だから生きておれるのである。

 人は死ぬと、その肉体は堅くこわばる。こわばるから生きていられない。

 同じように万物、たとえば草や木、これが生きているということはその枝や葉や根、その部分部分が柔らかくもろい。柔らかければこそ生きている。

 その証拠に草や木が死ぬと、水気がなくなってこちこちになる。

 だから、逆に類推して堅く強いというそういう性質、これは死と同類項である。

 柔らかく弱いということは、これは生きているということと同類項である。

 だから軍隊も、ひたすらに強くあろうとすれば、最後は負ける。木が強いことだけを求めておれば、大きくはなるが、一抱えになれば、もはや枯れるほかはない。

 そこで道を悟った人は、強く大きいということを下とし、柔らかく弱々しいということを上とする、よしとする。)

<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>

 

 

 

 

型が決まったものに、もはや進化はありません。

 

芸術、建築、制度、仕組み、…

 

これらは全て完成されているものとして認識されます。

 

皆が称賛し、鑑賞し、受け入れ、そのやり方を踏襲します。

 

歴史になるのです。

 

 

 

 

若い頃、サッカーを少々かじりました。

 

サッカーの戦い方に照らすと、この考えが勝敗の要になることに気付かされます。

 

 

 

私が若い頃のサッカーは、両サイドが駆け上がり、多くの場合闇雲にボールを中央に蹴り上げ、運よく味方に渡れば、シュートにつながる可能性が高まる、というのが基本的な攻撃の型でした。

 

敵陣に入り込むために、相手を抜き去る壁パスの型を完成させることが大切であり、あとは相手よりいかに早くボールに追いつくかという脚力が求められたものです。

 

つまり、監督やコーチというベンチ側の方針に基づいた攻撃の型に嵌めるわけです。

 

 

 

この考え方であれば、スポーツとしてのサッカーは全く楽しくありません。

 

なぜなら、プレイヤーの自由な裁量がないからです。

 

 

 

プレイヤーは “ この流れはチャンスだ ” や “ まずい流れだ ” など、試合中フィールドの雰囲気を体感しています。

 

しかし、一人がそれを反映した行動を起こしても、他の仲間が通り一遍の型で対応したなら、良い結果にはつながらないのです。

 

 

 

このような管理的なサッカーをせず、世界のトップに君臨しているのがサッカー王国ブラジルです。

 

ブラジルのサッカーは、ゲームの主導権がベンチ側ではなく、フィールドプレイヤーにあるかのようです。

 

芸術的な筆の流れのように人とボールが動き始め、型にはめて対応しようとする相手を翻弄し、美しいシュートや茶目っ気あるシュートがゴールネットを揺らすのです。

 

 

その流れ、その “ 作品 ” の生成と完成は一瞬です。

 

次の瞬間、ブラジルのメンバーはまた違う作品を作り始めるかのように、自由に、柔軟に動き始めるのです。

 

 

 

 

全てのもの、習い事、料理や掃除という家事、スポーツや仕事、あらゆる生物の行為、そして国家体制さえも同じです。

 

 

 

型は有効性を持っており、都合が良いほど多くの人が用います。

 

ただし、出来上がった型に安住するのなら、そこで進化が終わります。

 

 

型を重要視して

神聖化して押し付ける

共産主義、社会主義国家に

未来が無いのはこのためです

 

 

 

型を完成させたら、すぐさま新しい型を創り上げること

 

そしてその型もそこで進化が終わる

 

それだけです

 

それの繰り返し

 

 

 

 

 

型ができればそれは歴史として閉じていく

そして次の作品に向かう

 

この連続

 

堅強ではなく

柔軟さを基に

感性を活かし

 

自分の人生を

良き作品していきましょう