人の生くるや柔弱なればなり。其の死するや堅強なればなり。萬物草木の生くるや柔脆なればなり。其の死するや枯槁なればなり。故に堅強なる者は死の徒。柔弱なる者は生の徒なり。是を以て兵強ければ勝たず、木強ければ共す。強大は下に處り、柔弱は上に處る。〔人之生章第七十六〕
(人が生きているということは、その肉体の各部分が柔らかく弱々しい。だから生きておれるのである。
人は死ぬと、その肉体は堅くこわばる。こわばるから生きていられない。
同じように万物、たとえば草や木、これが生きているということはその枝や葉や根、その部分部分が柔らかくもろい。柔らかければこそ生きている。
その証拠に草や木が死ぬと、水気がなくなってこちこちになる。
だから、逆に類推して堅く強いというそういう性質、これは死と同類項である。
柔らかく弱いということは、これは生きているということと同類項である。
だから軍隊も、ひたすらに強くあろうとすれば、最後は負ける。木が強いことだけを求めておれば、大きくはなるが、一抱えになれば、もはや枯れるほかはない。
そこで道を悟った人は、強く大きいということを下とし、柔らかく弱々しいということを上とする、よしとする。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
型が決まったものに、もはや進化はありません。
芸術、建築、制度、仕組み、…
これらは全て完成されているものとして認識されます。
皆が称賛し、鑑賞し、受け入れ、そのやり方を踏襲します。
歴史になるのです。
若い頃、サッカーを少々かじりました。
サッカーの戦い方に照らすと、この考えが勝敗の要になることに気付かされます。
私が若い頃のサッカーは、両サイドが駆け上がり、多くの場合闇雲にボールを中央に蹴り上げ、運よく味方に渡れば、シュートにつながる可能性が高まる、というのが基本的な攻撃の型でした。
敵陣に入り込むために、相手を抜き去る壁パスの型を完成させることが大切であり、あとは相手よりいかに早くボールに追いつくかという脚力が求められたものです。
つまり、監督やコーチというベンチ側の方針に基づいた攻撃の型に嵌めるわけです。
この考え方であれば、スポーツとしてのサッカーは全く楽しくありません。
なぜなら、プレイヤーの自由な裁量がないからです。
プレイヤーは “ この流れはチャンスだ ” や “ まずい流れだ ” など、試合中フィールドの雰囲気を体感しています。
しかし、一人がそれを反映した行動を起こしても、他の仲間が通り一遍の型で対応したなら、良い結果にはつながらないのです。
このような管理的なサッカーをせず、世界のトップに君臨しているのがサッカー王国ブラジルです。
ブラジルのサッカーは、ゲームの主導権がベンチ側ではなく、フィールドプレイヤーにあるかのようです。
芸術的な筆の流れのように人とボールが動き始め、型にはめて対応しようとする相手を翻弄し、美しいシュートや茶目っ気あるシュートがゴールネットを揺らすのです。
その流れ、その “ 作品 ” の生成と完成は一瞬です。
次の瞬間、ブラジルのメンバーはまた違う作品を作り始めるかのように、自由に、柔軟に動き始めるのです。
全てのもの、習い事、料理や掃除という家事、スポーツや仕事、あらゆる生物の行為、そして国家体制さえも同じです。
型は有効性を持っており、都合が良いほど多くの人が用います。
ただし、出来上がった型に安住するのなら、そこで進化が終わります。
型を重要視して
神聖化して押し付ける
共産主義、社会主義国家に
未来が無いのはこのためです
型を完成させたら、すぐさま新しい型を創り上げること
そしてその型もそこで進化が終わる
それだけです
それの繰り返し
型ができればそれは歴史として閉じていく
そして次の作品に向かう
この連続
堅強ではなく
柔軟さを基に
感性を活かし
自分の人生を
良き作品していきましょう