怨むべく、怒るべく、弁ずべく、訴ふべく、喜ぶべく、愕くべきの際に当り、其の気甚だ平らかなるは、是れ多大の涵養。〔存心〕
(怨んだり怒ったり、弁じたり訴えたり、喜んだり愕いたりすべき際に当たってその感情が甚だ平らかであるというのは、これは多大の涵養があるからである)
<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>
湧き出る感情に押されず
感情を平らかにして臨む
望まれる姿
感情が乱れると、見苦しい振る舞いになります。
近年 “ ○○ハラスメント ” という言葉をよく耳にします。
これも感情に振り回された結果の現象です。
パワハラをする人は、人間学として、自分や他人の感情の処理や整理ができていません。
一方で、時務学として、仕事や作業のやり方や手順については、独自かつ単一の方針を持っています。
この自分の方針に沿わない状況が顕在化したとき、処理できていないもやもやした感情を他者にぶつけることになります。
感情の処理や整理がなされていたら、心の周波数を合わせながら協力体制を築いていけるでしょう。
しかし、何度丁寧に指導しても同じ間違いを起こすのだ、という意見も聞こえてきます。
何回も同じことを繰り返すのは、両者の間における起点もしくは終点が違っているからです。
指導する側は、自分が属している組織は何のために存在しているのか、この仕事がその目的にどのようにつながっているのか、これらについて明確に認識し、相手と共有することが必要です。
1+1=?,3+8=?というような、正解を求める思考だけでは不足です。
14=?+?というような、理想を実現する道筋を複数見つけ出そうとする思考が必要です。
セクハラは、正常であるべき場面において、自分の中に湧き上がってくる欲望の現れです。
些細な欲望かもしれませんし、自らも気づいていない大きな欲望が潜んでいるかもしれません。
正常な場面での振舞いとは何かを常に意識、実践し、欲望という感情を心の土俵に乗せないことです。
常に感情を一定に保つよう、自分という人物を練り上げていく努力が欠かせません。
“ ○○ハラスメント ” は、その努力が欠けていることを雄弁に語り、私たちに見せ付けてくれているのです。
安岡師は、「怨むべくして怨み怒るべくして怒る、弁ずべくして弁じ訴うべくして訴う、喜ぶべくして喜び愕くべくして愕くというは、よほど涵養した人ですね。」と続けています。
感情を平らかにした上で、適切な場面で適切な振舞いができること、これも人物として重要な要素でしょう。
ところが、時折テレビのニュースなどで不適切な感情の表現を見かけることがあります。
大企業の経営が行き詰った、大きなプロジェクトが失敗した、プロのアスリートが勝利した
こんなときに、責任者や当の本人が
“ 泣く ” という行為
企業経営では、そんな状態になるまで放っておいたという、見通しの甘さでしかありません。
プロジェクトでは、自分に課された責任の質と大きさを認識できていないのでしょう。
プロアスリートの場合では、次の目標が見えていないのでしょう。
いずれの場合も、なるべくしてなったということに他なりません。
感情を平らかにするということは、冷たく機械的ではないかという意見もあるでしょう。
しかし、人は人でしかありません。
誰にでも、怒り、苦しみ、哀しみ、喜びなどの感情は必ず生じ、意志に影響を与えかねません。
それらの感情には自分の中で向き合い処理すること、それしかありません
年齢を重ね
経験を積む中で
人物を磨くこと
そしてそれを
後世の人々に指針として示す
これは “ 恩送り ” としての
大切な取り組みであるはず