Loading

COLUMNSブログ「論語と算盤」

公私

2024年11月22日

内は犬の皮、外は虎の皮〔聞書第十一〕

(私生活はあくまで質素にすごせ、しかし公式の場に出るときは、多少の無理をしても、しゃんとした形をつくれとの意味である。単なる見栄やおしゃれではない。人間の心理は案外に服装や持ちものに影響される。しおれた姿をしていると心までいじけて、持てる力を発揮することもできなくなることがある。

 山本神右衛門のことば。何よりも積極的な気風を尊んだ神右衛門らしい教訓である。)

<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

 

 

私生活を質素に生きる、その効用とはどういうものでしょう。

 

日頃ムダ遣いをせず、大事なときに蓄えた財を投じるため

 

僅かな食料や衣類を大切に扱うという行為が、謙虚さを育み人物を創り上げる

 

天の恵みをありがたくいただくという本来の姿である

 

周囲からねたそねみを受けることがない

 

 

では、私生活を贅沢に生きる、その不効用とはどういうものでしょうか。

 

蓄財ができず、謙虚さを失い、人間が傲慢ごうまんになる

 

周囲からのうらやみの視線に溺れ、平常心を失う

 

高額な物が良い物とする、決して正しくない価値観が根付く

 

周囲の人の心に恨みやさげすみが生じ、人間関係が築けない

 

 

 

次に、公式の場、大切な場、重要な場できちんとする、その効用とはどういうものでしょう。

 

日常とは一線を画した場への参加という覚悟や喜びを表すことで、その場を肯定していることの表現となる

 

高いレベルの見解や見識を発する場に相応しいちである

 

参加者や上位の者へ敬意を表すことになる

 

 

では、公式の場できちんとしない、その不効用とはどういうものでしょうか。

 

私生活のままという印象を与え、重要な意見さえも軽んじられてしまう

 

この場を肯定していないと認識される

 

他者への配慮の無さの表れと映る

 

単純に、見栄やおしゃれの観点からも軽く見られる

 

 

 

 

 

私はこのように捉えましたが

皆さんはどうでしょう

 

 

 

大きくは、他者への気遣いと自らの修養としてまとめることができます。

 

 

改めて、“ 私生活は質素に、公の場では相応ふさわしい装いで ” という心がけが大切と考えます。

 

 

 

 

 ところで、社会人としてだらしなく見える人を、「公私の分別がなっていない」と言うとき、その基準となる目線は通常「公」にあります。

 

社会の一員としての「公」の場に相応しい振る舞いをせよという意味なのですが、いくら言っても「私生活」の質が低ければ、「公」における振舞いの質を上げることは無理です。

 

つまり、「私」の質を高めない限り、「公」の場での質は上がらないのです。

 

よって、「公私」を捉える場合、その基準となる目線は「私」に置くことが必要です。

 

 

 

 

自らを省み

絶えず修養する

 

これが

重要な取り組み