内は犬の皮、外は虎の皮〔聞書第十一〕
(私生活はあくまで質素にすごせ、しかし公式の場に出るときは、多少の無理をしても、しゃんとした形をつくれとの意味である。単なる見栄やおしゃれではない。人間の心理は案外に服装や持ちものに影響される。しおれた姿をしていると心までいじけて、持てる力を発揮することもできなくなることがある。
山本神右衛門のことば。何よりも積極的な気風を尊んだ神右衛門らしい教訓である。)
<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
私生活を質素に生きる、その効用とはどういうものでしょう。
日頃ムダ遣いをせず、大事なときに蓄えた財を投じるため
僅かな食料や衣類を大切に扱うという行為が、謙虚さを育み人物を創り上げる
天の恵みをありがたくいただくという本来の姿である
周囲から妬み嫉みを受けることがない
では、私生活を贅沢に生きる、その不効用とはどういうものでしょうか。
蓄財ができず、謙虚さを失い、人間が傲慢になる
周囲からの羨みの視線に溺れ、平常心を失う
高額な物が良い物とする、決して正しくない価値観が根付く
周囲の人の心に恨みや蔑みが生じ、人間関係が築けない
次に、公式の場、大切な場、重要な場できちんとする、その効用とはどういうものでしょう。
日常とは一線を画した場への参加という覚悟や喜びを表すことで、その場を肯定していることの表現となる
高いレベルの見解や見識を発する場に相応しい出で立ちである
参加者や上位の者へ敬意を表すことになる
では、公式の場できちんとしない、その不効用とはどういうものでしょうか。
私生活のままという印象を与え、重要な意見さえも軽んじられてしまう
この場を肯定していないと認識される
他者への配慮の無さの表れと映る
単純に、見栄やおしゃれの観点からも軽く見られる
私はこのように捉えましたが
皆さんはどうでしょう
大きくは、他者への気遣いと自らの修養としてまとめることができます。
改めて、“ 私生活は質素に、公の場では相応しい装いで ” という心がけが大切と考えます。
ところで、社会人としてだらしなく見える人を、「公私の分別がなっていない」と言うとき、その基準となる目線は通常「公」にあります。
社会の一員としての「公」の場に相応しい振る舞いをせよという意味なのですが、いくら言っても「私生活」の質が低ければ、「公」における振舞いの質を上げることは無理です。
つまり、「私」の質を高めない限り、「公」の場での質は上がらないのです。
よって、「公私」を捉える場合、その基準となる目線は「私」に置くことが必要です。
自らを省み
絶えず修養する
これが
重要な取り組み