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COLUMNSブログ「論語と算盤」

沈静

2024年11月12日

沈静は緘黙かんもくの謂に非ざるなり。意・淵涵えんかんにしてたい間正かんせいなる、此れを真の沈静と謂ふ。終日言語し、或は千軍万馬中相攻撃し、或はちゅうじん広衆の中繁劇に応ずるも、其の沈静たるを害はず。神定まれるが故なり。一たび飛揚動じょうの意あらば、端坐終日寂として一語なしと雖も、而も色貌自ら浮く。或は意飛揚動擾せずと雖も、而も昏々として睡らんと欲するは皆沈静と謂ふことを得ず。真の沈静底は自ら是れ惺々せいせいにして、一段全幅の精神を包んでうちに在るなり。〔存心〕

(落ち着いて静かであるということはただ黙っておるというわけのものではない。意―こころの淵が深くていろいろの影をひたして静かに澄んでおるように、落ち着いてよく物事を包容し、態度が静かで正しい、これを真の沈静というのである。終日語り合い、或は千軍万場の中相攻撃し合い、あるいは大ぜいの人の中でいそがしく応接するとも、その沈静を害なうことがない。神即ち最も深いところにある心の本体がちゃんと定まっておるからである。ところが一たびうわつき騒ぐ念があると、端坐して終日一語を発することなく静かにしておっても、顔色が自ら落着きを失う。あるいは意が別段見かけるところそれほど散乱しておるというのではないけれども、朦朧として眠ったようになっておるのはみな沈静ということができない。真の沈静なるものは自ら星が輝くように心が澄み、ひときわ全き精神をその中に包んでいるのである)

<出典:『呻吟語を読む』安岡正篤著 致知出版社>

 

 

 

 

 

まことに学びになる教訓です。

 

 

 

人に対するとき、相手の状況や発する言葉に心を寄せようとしがちです。

 

それは相手への共感として、両者の間柄を円滑にするものかもしれません。

 

しかし、相手の言葉で自分の心がひとたび浮ついてしまうと、もはや自分の軸を失い、巷に溢れるありきたりの思考回路に迷い込んでしまいます。

 

すると、相手に勝手に期待したり、勝手に決めつけたり、喜怒哀楽に心を奪われてしまいます。

 

そうではなく、常に自分を沈静させた状況の下、眼前に現れる様々な事象を客観的に捉え、冷静に分別し、対処していきたいものです。

 

 

 

社会人二年目あたり、仕事上で少し明るい兆しが出てきたある日の朝、周囲から様々な伝言が、いつになく多量に押し寄せてきました。

 

折り返し電話を、例の件を連絡せよ、顧客から相談が入っているなど、一分も経たない間に次から次へと伝えられてきます。

 

瞬間的に多忙になったのですが、私の内面は極めて落ち着いていました。

 

朝一番から、やや難題ではあるものの明るい兆しに集中して取り組もうとしていたせいか、どんどん送られてくる数多くの伝言の一つ一つが、たやすいもの ― 客観的に改めて眺めると、今まで臆したり、構えたり、発奮したりしていたことが、あまりにも大げさに捉えすぎており、実のところは冷静に対応すべきものとして認識できた ― その程度の事柄だったのです。

 

 

あのとき、その年齢なりの “ 沈静 ” を得られていたのでしょう。

 

 

最も深いところにある

心の本体が

ちゃんと定まっておる

状態

 

 

 

しかし

今の私は

まだまだ未熟

 

 

 

このブログにしても、対象に入り込みすぎており、客観性や網羅性などに欠けていると常々反省しております。

 

 

今日の教訓を座右の銘とし

自分を確立していくこと

 

そう自分に命じておきます。