諫と言ふ詞、早や私なり。諫はなきものなり〔聞書第二〕
(表立って主君に諫言などするのは、すでに感心しない、もし真に忠義の志があれば、日ごろの心がけによって主君の言行を善導し、諫言の必要などないようにしておかねばならぬ。そういう配慮と努力を怠り、主君が誤りを犯すまで放置しておいて、後から諫言などするのは、自分の忠節ぶりをひけらかす心からに過ぎない。
諫言の必要など起らぬようにしておくことが最上なのである。)
<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
日頃から主君の行いを見て
善に導く配慮と努力が必要とのこと
これは本当に難しいことと思います。
ある人について、このままでは上に立つ仕事はできないだろうと思うことがあります。
その人を上の地位につけるには、何をどうアドバイスすれば良いか悩みます。
表面的な良くない言動を諫めようとすると、もっともらしい理由をつけて反論してくるのがオチです。
その人についてよく考えてみると、大もとの考え方が身勝手、自己都合優先の言動、好き嫌いでの判断などが浮かび上がってきます。
判明した事柄について、相手の心へ上手に伝えるには、タイミングも重要です。
どのような状況下において
何をどう伝えるか
この二つを常に念頭に置いておかないと
人を育てることはできないでしょう
主君が何か誤った判断や振る舞いを行ったとき、その責任の一端は奉公人にあるとされるでしょう。
そういった奉公人や臣下の配慮や努力もさることながら、一方の主君も常に他者の視線という圧力の最中にいます。
臣下にも意見を述べさせ、自らの国造りの方向性と合わせて熟慮しなくてはなりません。
大抵の場合、臣下の方が庶民の心情をより理解しているでしょうから、臣下が示唆する事柄は無視できないのです。
そういう主君の思考回路と悩みを察しながら、主君の判断を良い方向へ持っていくように、臣下達は常日頃から気を使いつつ接していかねばなりません。
日本における集団的意思決定は、このような背景から生じ、確立されてきたのではないでしょうか。
しかし現在、日本は欧米の会社組織の在り方を見習おうと、日本の伝統的組織体制を破壊しようとしているようです。
欧米、特にアングロサクソン系の人たちは、新しい領域を切りひらいてきた過去の経験から、今でも開拓者精神が旺盛のようです。
人材については、単一基準で役に立たないと判断すれば、解雇という形で切り捨てます。
これは、一刻も早く新天地を手に入れるため、つまりは生き残りための意思決定の一環と思われます。
一方で日本は、周囲にいる人たちを分け隔てなく仲間にし、適材適所で用い、現状の社会環境下で生きようとします。
目的、そして行動基準、そこから生じる意思決定のプロセス、全て日本と欧米では違っています。
この違いこそ
利点として
生かしていくべきではないでしょうか
競争相手と同じ土俵に乗ろうとするのは、ディスアドバンテージの環境に飛び込もうとする姿勢でしかありません。
私たちはどうあるべきなのか
どこへ行こうとしているのか
この世界の中でどう貢献していくのか
明確なビジョンや羅針盤を持たずに
ただ欧米の言う通りに
進んでいこうというのであれば
私たち日本は
未来永劫
世界の後塵を拝し
隷属することになりかねません