民、死を畏れざれば、奈何ぞ死を以て之を懼れしめん。若し民をして常に死を畏れしめて、奇を爲す者吾執えて之を殺すを得ば、孰か敢えてせん。常に司殺の者有りて殺す。夫れ司殺の者に代わって殺す。是れを大匠に代わって斲ると謂う。夫れ大匠に代わって斲る者、手を傷つけざる有ること希なり。〔民不畏死章第七十四〕
(もしも、民に死刑を恐れるという、そういう殊勝な心がなければ、どうして死刑でもって人民を恐れさせることができるであろうか。
もしも、民に常に死刑を恐れる、そういう気持ちがあるならば、道をはずれた、よこしまをなす者、わたしがこれを捕まえて死刑にする。そうすれば、だれがそれ以後よこしまな悪いことをするであろうか(ただし現実には、殺しても殺しても犯罪はなくならない)。
しかしながら、この世界にはいつも人間の刑罰よりもさらに次元の高い殺を司る者、いわば造物主、そういうものがいて悪いものを殺してくれる。
本来はそれにまかせればいい。地上の君主がこの造物主、殺を司る偉大な司法官、これに代わって人民を殺そうとする。これはへたな大工が、偉大なじょうずな大工に代わって切ったり削ったりするというものである。
偉大な大工に代わって切ったり削ったりしようとすれば、ほとんどのものは自分の手にけがをするのがおちであろう。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
刑罰、死刑のあり方
どう考えるべきなのでしょう
私は法律家ではなく、身近な人が死刑に相当するような事件の被害者や加害者になったこともなく、今まで深く考えたこともありません。
だから、国の刑罰については、門外漢の素人考えしか申せません。
現在、先進7か国の中で死刑制度があるのは日本と米国の2国だそうです。
また、世界中の民主主義国家においては、死刑廃止や段階的廃止に向けて進んでいるようです。
手を打っていないのは、北朝鮮、中国、イランなど、つまり非民主主義国家で人権を尊重しない国々だそうです。
また米国も、徐々に死刑制度の廃止に向けた動きがみられ、全50州のうち約半数の州が死刑を廃止しているとのこと。
犯罪の理由には様々なものがあるでしょうが、少年犯罪の理由の大半は育った環境、家庭環境にあるとされています。
そんな少年少女が、一度犯罪に手を染めると、刑期を終えても社会はなかなか受け入れてくれません。
結局、この世に絶望して再び罪を犯してしまうという循環に陥るのでしょう。
よくない家庭環境や生活環境から生じた犯罪のケースでは、何かあってから動き出すという行政の体制、あるいは生活保護の支給など金銭面での支援施策で効果が出るとは思えません。
戦前の大家族形態、家長制度を称賛するつもりはありませんが、当時の良いところは、地域の年長者や老人が、年少者に人としてのあり方や道徳の基礎を教えたり、また貧しい人々に手を差し伸べたりしたことです。
核家族化が進んだ今、そういうソフト面の支援を全面的に行うことが必要ではないかと考えます。
しかしいまの政治は、対症療法あるいは大衆迎合的な施策しか期待できなくなっています。
そんな現状に対し、声高に異を唱える国民が少ないのも問題です。
我が国は、全国的に思考停止に陥っている状況と言っても過言ではないでしょう。
民主主義の欠陥を垣間見るようです
ところで、人を殺すことが許されないというのは当然肯定しますが、では死刑はどうなのでしょう。
何らかの都合で他者を殺した者に対し、人間社会が作った法律という大義名分の下、その犯罪者を人間社会の都合で抹殺する。
人道の見地からは、難しい解釈がなされた結果、死刑は正しい行為と結論付けられるのでしょうが、結局のところ感情的で、悪いものを避けよう、排除しようという鳥獣の行為とあまり相違しないように感じます。
この問いに対する解は見出せません
一方、天道の見地からでは、今日の言葉はもっともな主張として賛同されると思います。
仮に、一国の制度の欠陥のせいで犯罪者が生まれたとして、その犯罪者を国が死刑に処すというのは、まったく驕った行為であり、為政者の当事者意識の無さ、責任感の欠如となるでしょう。
皆さんはどうお考えでしょうか