子游、武城の宰たり。子曰わく、女、人を得たりや。曰わく、澹臺滅明なる者あり。行くに径に由らず、公事に非ざれば、未だ嘗て偃の室に至らざるなり。
(子游が武城の代官であった時、先師は
「お前はすばらしい人物を見つけたかね」と尋ねられた。
子游が答えた。
「澹臺滅明という者がおります。彼は決してこそこそと小径は行きません。公事でなければ、まだ一度も私の部屋にはいって来たことがございません」)
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
すばらしい人物とは
こそこそしない
公私を区別する
子游は、この二つをあげています。
この二つの条件から浮かび上がる人物がすばらしい人物ということ
こそこそ小径を通らない
ただ単に、こそこそしないだけならば、ひょっとして間が抜けているのかもしれません。
しかし、続く二つ目の条件がそうではないことを示します。
公事でなければ権力者には近づかない
公の組織の人間同士
公事以外で馴れ合うようなことはしない
公の者同士が
私欲をもって近寄れば
その国の民は不幸になるでしょう
私事で権力者に近づいていく者は
当然ながら何らかの企み
例えば他を犠牲にしても
自分の利を得ようとする
そんな企てを持っているものです
公の権力者同士が
近づく姿を見たら
懸念を感じる
そんな感受性を持ち合わせていますか
公に働く人も
そうでない人も
こんな場面を危惧する注意深さ
持ち合わせていたいものです
全て公に仕える者は、周りから疑いを招くような言動はしてはなりません。
自分の職責、責務を全うし、国のあるべき姿を追求するために、大きな視点で国を観察し、把握してゆく。
一方で、周囲から疑いを持たれるような言動は控え、国を支える公事に集中する。
以上、二つの条件をもってすばらしい人物像とし、その姿について孔子と子游は意志疎通が図られています。
二人の価値観は、孔子の教えを基盤として一致しているようです。
二つの条件
それだけで
通じる意思
これが可能なのは
すばらしい人としての条件は
本来人間が持っているはずの
自然の素養だからではないでしょうか
心の雑草に対処する
真っ当で
お天道様の意向に沿う
正しく美しい心にしていく
それを実現している
澹臺滅明
これがあるべき人の姿
だからすばらしい人物