民、威を畏れざれば、大威至る。其の居る所を狹しとする無かれ。其の生ずる所を厭う無かれ。夫れ惟だ厭わず、是を以て厭われず。是を以て聖人は自ら知りて自ら見わさず。自ら愛して自ら貴しとせず。故に彼を去り此れを取る。〔民不畏威章第七十二〕
(おかみの刑罰を恐れないものには、必ず天罰が下るであろう。
出世にあくせくすることで、本来広々しているはずの自分の住まい、それを狭めてはならない。富、金銭など、形あるものに執着することで、本来長かるべき自分の運命を嫌がり縮めてはならない。
自分の運命を嫌がらない。だからその人は、神々から、あるいは人々から嫌がられることがない。
そういうわけで聖人は、自身道を悟りながら自分の知恵をひけらかそうとはしない。わが身を愛しながら、自分を貴しとはしない(むしろへりくだり、卑しい場所にいようとする)。
だから、もろもろの人のみずからの住まいを狭め、みずからの運命をいとう、そういう生き方を去って、この心の安らぎを得る道を選ぶのである。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
ありのまま生きる
天から授かった命
それが本当の幸福
富や名声は追わず
そんな自分は他人と比べて劣っているのでしょうか。
決してそんなことはありません。
天上天下唯我独尊
<釈尊>
一人ひとりには、それぞれ違う得手と知恵が授けられています。
そしてまた、不得手の無い人などいません。
誰かの不得手を
誰かの得手が穴埋めする
お互いが穴埋めし合うこと
これが
“ 調和 ”
人は
調和することでこそ
種として最も望ましい
生の環境を創り上げられます
ありのままで生きること
それは日がな寝そべり
何もしない
そんな怠惰な生き方ではない
皆で調和して
より良く生きるための
環境を整えていく
その工夫や努力が欠かせません
自分の生い立ちや運命
自分が存在するための
それらの基盤を全て受け入れ
さらにそれを
大切にしていくこと
そして
見えない所で
“ ありのまま ” の力で
人々を救うこと
つまり
全ての人の調和を図ること
これこそが
ありのままで生きるということ
聖人は、なぜ表立って活躍しないのか
それは大多数の人々が “ 小人 ” だから
ありのままで生きる
その幸福に至る知恵を
正面から “ 小人 ” に
授けようとしても
理解されないのです
そんな “ 小人 ” が、お互いにいがみ合い、争い、非難し、口やかましく説教し、虐げる。
自分が
富や名声を得て長に立ちたい
そのためには
他人との調和という
大自然の時間軸に沿った行動がとれず
急ぎ拙速に戦いを仕掛ける
この世で救われるべきは、ありのままを大切に生きる人
その人の身の回りの環境を好転させるには、世の中に溢れる煩悩の種や汚れを取り払ってこそ
自分の本当の姿が見えますか
自分の心が汚れていては
自分の心の鏡には
真の自分は現れません
心にこびりついた
様々な汚れを拭い去り
心の鏡に真の姿を写し出す
自分に与えられた天命
自分に与えられた環境
これらを厭うことなく
“ありのまま”を生きる
安らぎのある真の人生