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COLUMNSブログ「論語と算盤」

懷の玉

2024年8月20日

吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易し。天下能く知る莫く、能く行うこと莫し。言に宗有り、事に君有り。夫れだ知ること無し、ここを以て我を知らず。我を知る者まれなれば、我貴し。ここを以て聖人は褐をて玉をいだく。〔吾言甚易知章第七十〕

(わたしの言葉ははなはだ知りやすい。はなはだ行いやすい。それなのに、天下の人はこれを理解するものがいない。これを実行できる人がいない。

 言葉の中には、いちばんおおもとになる言葉がある。すべてのものごとの中には、それをべるだいじなものがある。世間の人は、そのことを知らない。だから、わたしを理解することができない。

 わたしを理解するものがめったにいないということは、それはわたしがそれだけ高貴だからである。

 こういうわけで、聖人はぼろを着ながらふところに玉をいだいている(つまり道を体の中に包みながら外に現わさない)。)

<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>

 

 

 

 

この老子の嘆きは、自己顕示欲の一面でしょうか

 

 

 

自分の考えや説は

最もわかりやすく真理を突いている

 

にもかかわらず

誰も見向いてくれない

 

 

言葉や物事には大元があり

それを世間の人は知らない

 

だからその大元を語る私の言葉に

気付くことができない

 

 

 

ここは、やや独りよがりと言われそうです。

 

 

 

しかし、続く一説には深さが感じられます。

 

 

 

聖人の道は自分の中に満ち足りて

しかも外には現わそうとしない

 

だから外部の人には

聖人が着るボロの内側を

見ることはできない

 

 

 

これは全ての人に当てはまることでしょう。

 

 

 

 

人里離れた山の中に一人で住んでいるのなら、誰もその人のことなど知らないでしょう。

 

この人が、誰かに自分のことを認知してもらいたいために、山を下りて街に住んだとします。

 

すると確かに、「あぁ、あの人はいつもこの前を横切っていくよ」というように知られるでしょう。

 

 

 

そう

いることは知られます

 

ただし

そこまでです

 

 

 

知られていても理解されてはいません

知っていても理解してはいません

全ての人が全ての人に対して

 

山を下りた人は

町に住んだことで

気が晴れるでしょうか

 

 

 

 

 

老子を知り、理解することができるのは、少なくとも同じような考え方をしている人です。

 

 

つまり、人物を見定めることができる眼力のある人です。

 

 

 

ただ、それでも全ては理解できません。

 

 

 

 

 

人の生は

 自己との対話

  という修練により

   自らを磨き続けていくこと

 

 

 

 

聖人の道は己に足りて外にあらわれず

 

<同上 林希逸の注釈より>

 

(聖人の道は自分の中に満ち足りて、しかも外には現わそうとしない(再掲)

 

 

 

 

 

 

そして皆とともに

 

良き世を創りたい