子曰わく、賢なるかな回や。一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂に堪えず、回や其の樂しみを改めず。賢なるかな回や。
(先師が言われた。
「顔回は、なんと立派な人物だろう。一膳の飯と一椀の汁物しかない貧しい長屋暮しをしておれば、たいていの人は、その苦しみに堪えられないものだが、回はそんな苦境にあっても楽しんで道を行って変わることがない。なんと立派な人物なんだろう回は」)
※ 簞、竹であんだ飯を盛る器。瓢、ひさごを半分に割った汁入。
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
一膳の飯
一椀の汁物
毎日毎日、来る日も来る日も、この生活が続く
耐えられますか
普通の人は嫌気がさすでしょう。
では、顔回はなぜ楽しめるのでしょうか。
顔回は、自らを高めることが人生における最高の喜びであり、目的であると感じていたのかもしれません。
一方、普通の人はそうではなく、腹一杯食べたい、酒を浴びるほど吞みたい、家事や農作業から解放され、飲み食い踊り続ける贅沢な日々を送りたいと思っているのではないでしょうか。
外部からの不確かな情報も、小人たる人たちの心を揺さぶることでしょう。
「隣国では成功者がどんどん出ているらしい」
(こんな代わり映えしない村からは出て
隣国で成功したい)
「難病を治す薬が見つかったらしい」
(お金さえあれば
親の病気を治せるかもしれない)
初めに述べたように
顔回は自分の考えと責任において
自らが進むべき道を見つけています
それに対して普通の人は
置かれた環境に身を任せ
外からの情報に翻弄され
不満や欲を高めています
顔回の人生における一日一日、それは美しく、輝きを生み出すものでしょう。
しかし、普通の人の不満や欲望も、決して悪ではないでしょう。
それらの解消のために、文明は発達してきたのですから。
ただ、その文明が救うことができるのは一握りの人であって、全員ではありません。
多くの人は闘いの中で挫かれ跪き、絶望し、夢と希望を果たせないまま倒れてしまうのです。
京セラを生んだ稲盛和夫氏は、生前、講演などで『「原因」と「結果」の法則』をよく引用されていたそうです。
その著者であるジェームズ・アレンは、ナポレオン・ヒル、デール・カーネギー、アール・ナイチンゲールなどに影響を与えたとされる作家、偉人、賢者、哲学者と言われています。
その教えは、顔回の思いに近いものと感じられます。
一節を引用します。
心の中の思いが、私たちを創っている
私たちは 自分の思いによって創り上げられている
私たちの心が邪悪な思いで満ちているとき
私たちには いつも痛みがつきまとう
雄牛を悩ます荷馬車のようにして
もし私たちが清い思いばかりをめぐらしたなら
私たちには喜びばかりがつきまとう
私たち自身の影のようにして
<引用:『「原因」と「結果」の法則』
ジェームズ・アレン著
坂本貢一訳
サンマーク出版>
この一節にある
“ 清い思い ” とは
どのようなものでしょうか
顔回の生きる姿勢が
それを示しているかのようです