子曰わく、孰か微生高を直なりと謂うや。或ひと醯を乞う。諸を其の鄰に乞うて之を與う。〔公冶長第五〕
(先師が言われた。
「誰が微生高を正直者というのだ。彼はある人に酢を無心され、それを隣から貰って与えたというではないか」)
[これを虚栄の為と見られたからであろう]
<出典:『仮名論語』伊與田覺著 致知出版社>
虚栄心は
一時的な欲
自らを損なう災いの元
誰かからお願いをされとき、自分でできなければできる人を紹介してあげることです。
すると、お願いをする人とされる人の間に感謝と思いやりの関係ができます。
しかし、その感謝だけを自分のものにしようと、無理矢理、両者の間に入るのは道理に背く行為です。
このような行為は、お願いをされる側の人からやがて恨みを買うようになります。
前回も述べましたが、恨みは本当に怖いもの、恐ろしいものです。
一方、お願いをする側の人は、結果的にお礼をすることになります。
何も知らなければ、事あるごとにその虚栄心ある者にお礼をしてしまうでしょう。
やがて、事の顛末を知ったとき、ここにも恨みが生じます。
両方から怨みを受ける
その元凶は虚栄心
人と人とが
うまく出会えるように
うまく交際できるように
取り計らうことが人の道
そして
その人道をきちんと認識し
実行に移すことができるのなら
周囲から丁重に扱われることになります
くれぐれも
虚栄心は抑え込むこと
“ 仁というものは人道の極致であるが、儒者の説明はやたらにむずかしいばかりで、役に立たない。身ぢかなたとえを引けば、この湯ぶねの湯のようなものだ。これを手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれども、みんな向うの方へ流れ帰ってしまう。これを向うの方へ押してみれば、湯は向うの方へ行くようだけれども、やはりこっちの方へ流れて帰る。すこし押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天理なのだ。仁といったり義といったりするのは、向うへ押すときの名前であって、手前にかき寄せれば不仁になり不義になるのだから、気をつけねばならない。 ”
<引用:『二宮翁夜話』福住正兄 原著 佐々井典比古 訳注 致知出版社>