白石御狩の時、大猪御打ちなされ候。皆々走り寄り、「さてゝ珍らしき大物を遊ばされ候。」と見物仕り候処、猪不図起き上り、駆出し候に付、見物の衆うろたへ迯げ申し候。鍋島又兵衛(注・蓮池鍋島の臣)、抜打にのばし申し候。その時、勝茂公、「ごみがするは。」と仰せられ、御顔に袖御かぶせなされ候。これは、うろたへ候衆を御覧なさるまじき為にて候由。〔聞書第四〕
(勝茂公が白石で狩をされ、大猪を撃たれたことがあった。一同がかけ寄って「さてさて、珍しい大ものを仕止められたことよ。」などと見物していると、突然、猪が起上り、かけ出した。皆はうろたえて逃げ散ったが、鍋島又兵衛が抜きうちに仕とめた。
このとき、勝茂公は「ごみが立つわ。」といわれ、顔を袖でおおっておられた。これは人々がうろたえ騒ぐさまをご覧にならぬためだったのである。)
<出典:『葉隠』原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
解説に、上に立つ人の心得であるとされています。
ただ、部下側にとっても自己を省みる良い機会です。
まず、上の人が、見て見ぬふりをした行為、それを見逃さないことが大事です。
上の人が見ぬふりをしたのなら、とりあえずその場は収まっています。
ここでは、鍋島又兵衛が仕留めたことで収まりました。
この場面を鳥瞰すると、殿がおり、又兵衛が仕留め、他の者は逃げ腰の状態、となります。
さて、自分が逃げ腰の一人であったのなら、反省し、どうするのが正しい行いかについて、よく考えねばなりません。
そして、見出した自分なりの考えに対して、根拠と信念を植え付けることも肝心です。
その繰り返し、積み重ねによって、人は創られていきます。
そしてまた、その言動が正しいものになっていくことが大切です。
何が「正しいもの」なのか。
正解はありません。
その人の生きる軸でしょう。
それに頼って生きるのです。
この経験と反省が無ければ、人としての成長は見込めません。
その時点における未熟さのまま堂々巡りするだけです。
完全な人間はいません
だから
年を重ねても自省し
己を磨いていくしかありません
次に、上に立つ人にとって。
高い理想を持っていれば、部下の些細なことに目くじらを立てるようなことはありません。
口やかましく指導すると、部下の成長の領域が狭まります。
例えば今日の場面、うろたえた衆に “ みっともないぞ ” と言ってしまえば、下の者は “ みっともないことをしてはならない ” と考えてしまうでしょう。
しかしこの場面、殿が見ぬふりをしたのは、“ みっともない ” という理由だけでしょうか。
油断は禁物、行動は慎重に、万一に備える心構えなど、武士としての重要な要素が欠落していることを感じたのではないでしょうか。
怒らず、見ぬふりをするに留めた殿の配慮に気づいた者がいたのなら、自身について色々な観点から省みることができます。
人を育てるには
自己の振舞いや言動について
考えさせる機会を与えることが必要です
そのためには
自省するという意識を
根付かせておかねばなりません
根付かせるには
日頃から上の人自身が
その姿を見せておくことです
そして
より高く、広く、大きい
揺るぎない理想を持っておくことです