我をして介然として知有り。大道を行わしめば唯だ施すを是れ畏る。大道甚だ夷かにして民徑を好む。朝甚だ除り、田甚だ蕪れ、倉甚だ虚しく、文采を服し、利劍を帯び、飲食に厭き、資材餘有り。是れを盗誇と謂う。非道なる哉。〔使我介然章第五十三〕
(もしも、わたしが、自分には小さな知恵と小さな行動力しかないのに、自分の知恵、行動力に固執して広い道を行こうとするならば、これはほんとうに道を悟った人にとっては、ひどく迷惑なこと。わたしのすることなすこと、すべて、真に道を悟った人からは恐れられるであろう。
ほんとうに大きな道というのは、ひどく坦々としている。平らかである。しかるに、俗人は斜めの小道、近道を好んで行きたがる。それがかえってけがをするもとなのに、それに気がつかない。
同じように、現在の為政者は大きな道を知らない。朝廷の建物だけをきれいに飾る。国のもとである田圃はすべて荒れ果てている。米倉はすべて空っぽである。
それなのに、支配層はきらびやかな美しい服を着て、鋭い剣を腰に帯び、ぜいたくな飲食物に飽き足り、ありとある宝物をためこんで富を誇っている。
これは泥棒が自分の盗みの能力を誇る、それと同じである。
なんと道にはずれたことではないか。)
<出典:『老子講義録 本田濟講述』読老會編 致知出版社>
講述の本田氏によると、「老子が自分の目の前にした戦国の諸侯の生き方、それに対する悲憤慷慨の感情をストレートに出した文章」とのことです。
せこせこと、ほんの少し近道だからと小道を選択する
恥ずかしながら私にもそんな一面があります。
こんな私が為政者になれば、今日の言葉のように“自分の盗みの能力を誇る泥棒”に成り下がるのでしょう。
淡々とした
平らかで
大きな道の
ど真ん中を行く
望ましい生き様
しかし、地位や才能に関わらず多くの人が、老子の言う “ 道 ” に外れた生き方をしているようです。
それを正す手段はないのでしょうか。
孟子は性善説を
荀子は性悪説を
説きました
“ 性善と性悪を分ける要点は「自律」なのです。
孟子は、人間には自分を律する力は充分にある。したがって、その人間性や徳を強化するべきだと説きます。
荀子は、人間は欲望を持つから自分を律する力はないとします。
ではどうしたらよいのか。
そこで出てくるのが他動的に律すること。つまり「礼」をもって秩序を正していくことなどを主張しました。
荀子の弟子の韓非子になると「法」により人間を律することが確立されます。「法家思想」です。”
<引用:『月刊致知 2023.10』~四書五経の名言に学ぶ~ 田口佳史氏>
法で律するということは、そこまでしなくてはうまくゆかないということです。
ところが、現代ではそれを逆手に取る形で、法さえ犯さなければよいというような風潮になりつつあります。
法に頼ることなく
法に触れる行いをせず
自らを律していくこと
これが極めて重要です
しかしそれは相当に難しい
“「イエスよ、私を解放してください。評価されたいという思いから、重んじられたい、褒められたいという思いから、他の人から好かれたいという思い、頼られたいという思いから、認められたいという思いから、私を解放してください」
マザーのような人物でさえも、他人の評価が気になるなど、人間の本性である様々な執着を毎日の祈りによって、越えようとしたのです。”
<引用:『月刊致知 2023.10』~人生を照らす言葉~ 鈴木秀子氏>
かのマザー・テレサでさえ
毎日の祈りによって
改めて自らを律していた
“「私は洗面をするときに、猛烈な自省の念が沸き起こってくることがあります。たとえば、前日の言動が自分勝手で納得できないときに、『けしからん!』とか『バカモンが!』などと、鏡に映る自分自身を責め立てる言葉がつい口をついて出てくるのです。(中略)私は『反省』を繰り返すことで自らを戒め、利己的な思いを少しでも抑えることができれば、心のなかには、人間が本来持っているはずの美しい『利他』の心が現れてくると考えています”
<引用:『月刊致知 2023.09』~特集 カント道徳 稲盛和夫氏の言葉として~ 夏目研一氏>
稲盛和夫氏でさえ
利己心を捨て去ろうと
日々戦っていた
私たちは
できるだけ早い段階で
人としての正しさや生き方を
しっかりと習得しておくべきです
さもなくば
世間体に引きずられ
利己的な思いに左右され
自らを律することが
不可能になってしまいます
なんとなればその行く末は
“自分の盗みの能力を誇る泥棒”
でしかないのですから