上士は道徳を重んじ、中士は功名を重んじ、下士は詞章を重んじ、斗筲の人は富貴を重んず。〔品操〕
(人間の本当にできた人は道徳を重んずる。中等の人間は功名を重んずる。下等の人間は文学とか詩歌、芸術といったものを重んずる。斗筲の人―一斗枡や箕で量るような人間、いわゆる一山百文の人間は富貴を重んずる。)
古今の士に率ね三品有り。上士は名を好まず。中士は名を好む。下士は名をも知らず。〔品操〕
(下士は名を好むことすら知らない。名などどうでもよい、ただ金さえあればよいということ。世の中にはこういう人間がなかなか多い。これを下士という。それが少し飯が食えるようになると、名誉・名声が欲しくなる、名刺に肩書きを刷り込みたくなる。こういうのが中士。そんなこともばかばかしくなってくると初めて上士である。)
<出典:「呻吟語を読む」安岡正篤著 致知出版社>
古くから
立派な人ほど
富や名誉を追わないと言います。
江戸末期から昭和初期にかけて活躍した医師であり政治家でもある後藤新平も、次のような言葉を残しています。
~金を残して死ぬのは下だ
事業を残して死ぬのは中だ
人を残して死ぬのが上だ~
以前ある人から聞いた言葉(出所不詳)は、次のようなものでした。
~三流は死んで金を残す
二流が死んだら名が残る
一流は死んでも人が残る~
「人を残す」こと
これは人類の大事な仕事の一つ
そうでないのなら、上述した教訓はすでに忘れ去られたはずです。
古人の知恵はすべて霧消したのでしょう。
「人を残す」ことで知恵や教訓が語り継がれる。
これこそ人類が積み重ねていく歴史になるはずです。
ところが、そんな地域や国は世界でも稀です。
私たちが住む日本は、そういう稀な国の一つです。
いわゆる革命が生じれば、知恵、教訓、歴史が途絶えます。
日本は、戦国時代における国内での争い、その後は米英中露など外国との争い、そんな中、革命ではなく “ 維新 ” で生き抜いてきた国です。
だからこそ、私たちの日本には、人が残り、知恵や教訓が語り継がれ、文化が継承されているのです。
精神面において
日本はまさしく “ 一流 ” であり
つまりは道徳が重んじられています。
そう
功名や富貴などという
些末な事象に流されることなく。
そうでない過去を経た国では、時の権力者によって文化は踏みにじられ、名ばかりの “ 文明 ” がはびこることになります。
そんな “ 文明 ” は、やがて “ 文迷 ” 、 “ 文冥 ”となっていくのでしょう。
安岡正篤師の講和録に記されています。
「成る程いかにもわれわれは文明をエンジョイしております。しかしその文明をつくり上げるのにもっとも力のあった科学の世界から、科学者の中の先覚者達が次第に今日の文明というものを疑い懼れるようになり、これを警告する声が高く且つ深刻になって来ております。それらの人々の警醒の論を注意しておりますと、文明の明という字がだんだんと変わって来て、迷という字になって来た、或は「冥」とも言えましょうか、つまり文明というものが次第にわけの分からぬものになって来たというのであります。」
<出所:「活學 第一編」安岡正篤著 致知出版社>
徳を積むことが人間として最も大切なこと
それは呼吸をはじめ生きる営みと同じこと
そしてそれを次世代へと伝承していくこと
~人を残し続ける~
私たち日本人が
為すべき役割の一つ