不慮の事出来て動転する人に、笑止なる事などといへば、尚々気ふさがりて物の理も見えざるなり。左様の時、何もなげに、かへつてよき仕合せなどといひて、気を奪ふ位あり。それに取り付いて、格別の理も見ゆるものなり。不定世界の内にて、愁ひも悦びも、心を留むべき様なきことなり。〔聞書第二〕
(不慮の災難にあって気を落としている人に、「お気の毒」などといえば、ますます気がめいり、筋道を立てて考えることもできなくなってしまう。
そういうとき、あっさりと、「かえってよかった」などといってハッとさせるのだ。それがきっかけになって、思わぬ活路が開けてくるものだ。
うつろいやすい人の世にあって、悲しみにせよ喜びにせよ、心を一ヵ所に固定させてはならないのである。)
<出典:「続 葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
災難に遭えば、悲しむことになります。
しかし
一通りのその時期を過ごせば
日常に戻らねばなりません。
感情に支配されると人は悲観的になります。
もともと人は、生命や種の保全のために、周囲の事象をネガティブに捉えます。
よって、心のあり様を自然に任せる、つまり受け身で移ろいゆく気分に心を任せてしまうと、必ず悲観的になるのです。
それに対して、未来を拓くには意志が必要です。
意志があれば、心をコントロールすることも可能になり、希望が生まれてきます。
楽観主義は、その土台に意志がなければ成り立たないのです。
災難のとき、「かえってよかった」として明日に目を向けることができれば、新しい道・活路が開けるでしょう。
しかし、周囲が「お気の毒」と同情心を投げかけるほど、その人の心は感情に支配され続けることになります。
さらに、天や神の存在を信じる心があれば、再生の過程は人生の糧となります。
そうではなく、天や神を信じず、自分の力で生まれてきた、そして今も自分の力で生きていると考えるのなら、災難も自分の責任と考えるしかないでしょう。
これを自責と捉えるのならまだ救いはありますが、小人は他者に責任をすり替えようとします。
他責とすれば心身が軽くなるからです。
これが日常生じる争いごとの一因です。
天や神を信じるのなら、今回の災難の意味や意義を考えるでしょう。
そして問います。
それによって災難は課題へと姿を変え、克服するための一手を打つことができるようになります。
つまり、再生というよりも、脱皮・成長という機会に昇華させられるのです。
天や神に生み落とされたこと
生かされていること
それに気づいて
意志を持って生きる
これが天道に呼応した人道