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COLUMNSブログ「論語と算盤」

災いを糧に

2023年5月30日

不慮の事出来て動転する人に、笑止なる事などといへば、尚々気ふさがりて物の理も見えざるなり。左様の時、何もなげに、かへつてよき仕合せなどといひて、気を奪ふ位あり。それに取り付いて、格別の理も見ゆるものなり。不定世界の内にて、愁ひも悦びも、心を留むべき様なきことなり。〔聞書第二〕

(不慮の災難にあって気を落としている人に、「お気の毒」などといえば、ますます気がめいり、筋道を立てて考えることもできなくなってしまう。

 そういうとき、あっさりと、「かえってよかった」などといってハッとさせるのだ。それがきっかけになって、思わぬ活路が開けてくるものだ。

 うつろいやすい人の世にあって、悲しみにせよ喜びにせよ、心を一ヵ所に固定させてはならないのである。)

<出典:「続 葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

 

 

災難に遭えば、悲しむことになります。

 

しかし

 

一通りのその時期を過ごせば

 

日常に戻らねばなりません。

 

 

 

 

 感情に支配されると人は悲観的になります。

 

もともと人は、生命や種の保全のために、周囲の事象をネガティブに捉えます。

 

よって、心のあり様を自然に任せる、つまり受け身で移ろいゆく気分に心を任せてしまうと、必ず悲観的になるのです。

 

 

 

 それに対して、未来を拓くには意志が必要です。

 

意志があれば、心をコントロールすることも可能になり、希望が生まれてきます。

 

楽観主義は、その土台に意志がなければ成り立たないのです。

 

 

 

 災難のとき、「かえってよかった」として明日に目を向けることができれば、新しい道・活路が開けるでしょう。

 

 しかし、周囲が「お気の毒」と同情心を投げかけるほど、その人の心は感情に支配され続けることになります。

 

 

 

 

 

 さらに、天や神の存在を信じる心があれば、再生の過程は人生の糧となります。

 

そうではなく、天や神を信じず、自分の力で生まれてきた、そして今も自分の力で生きていると考えるのなら、災難も自分の責任と考えるしかないでしょう。

 

これを自責と捉えるのならまだ救いはありますが、小人は他者に責任をすり替えようとします。

 

他責とすれば心身が軽くなるからです。

 

これが日常生じる争いごとの一因です。

 

 

 

 

 天や神を信じるのなら、今回の災難の意味や意義を考えるでしょう。

 

 

そして問います。

 

 

それによって災難は課題へと姿を変え、克服するための一手を打つことができるようになります。

 

つまり、再生というよりも、脱皮・成長という機会に昇華させられるのです。

 

 

 

 

天や神に生み落とされたこと

 

生かされていること

 

 

それに気づいて

 

意志を持って生きる

 

 

これが天道に呼応した人道