天徳は只是れ箇の無我。王道は只是れ箇の愛人。聖賢の学問は是れ一套、王道を行ひ、必ず天徳に本づく。後世の学問は是れ両截、己れを修めずして、只管に人を治む。〔談道〕
(奸偽(悪だくみ、悪い計略で人を陥れようとすること)というようなものは人間に至って初めて生じてきたもので、他の動物にはない。従ってそういうものは一切捨て去って、我を持たない、無我になる。これが一番の天徳であるというのです。同様に王道も、人間に徹して人間を愛することより外にない。愛という字をかなしと読みますが、この日本の国を愛し民族同胞を愛すれば、本当にこれを心配して何とかしなければならぬと心底から考えるようになる、それが王道というものです。
一套の套はかさねるで、すなわち一方に専念することを意味する。両截はふたきれで統一のないこと。聖賢の学問はただ一筋に基づいて王道を行った。ところが後世の学問は己れを修めると人を治めるとの二つに分かれて、しかも肝腎の己れを修めることをしないで、ひたすら人を治めようとする。
『論語』にも「古の学者は己れを為む。今の学者は人を為む」と書いてありますが、これは後世の学問の悪いところで、人を治めようと思ったならば、まず以て己れを修めなければならない。王道に即するとは天徳に基づくということである。つまり自然と人間を一貫する心理に立たなければならぬということであります。)
<出典:「呻吟語を読む」安岡正篤著 致知出版社>
己を修める
人の人生はこれに始まりこれに終わる
そのためには慎独が必要
己を修めて、身に付けた知恵で人々を支える
人々はその知恵を活用して日々の生活、人生を良くしていく
その知恵を、徳ある者が伝承、継承していく
安岡正篤師は、著書『青年の大成』(致知出版社)の中で、米国作家ホーソーン氏の『巨巌の顔』の物語を紹介しています。
アメリカのある村で、一人の少年に母親がこの村の言い伝えを語ります。
この村で生まれた子が、やがてこの時代の最も偉大で高貴な人物になって現れるという予言です。
そしてこの村には人間の顔そっくりの巨大な岩があり、その偉人はこの岩の顔そっくりだというのです。
少年が成長する過程で、商売に成功した成金、将軍に出世した軍人、大統領候補になった政治家などが故郷に錦を飾る形で現れますが、その言動から村人は予言の人ではないことに気づきます。
少年はやがて成人、中年、老年と年を重ねますが、ずっと毎日、その日のパンのための骨折り仕事をし、それが終わると一人で黙想に耽るという生活を続けていました。
歳月が過ぎて彼は老人になりましたが、その顔の尊い皺や頬の深い筋は時が刻んだ碑文となり、人生行路によって練られた賢い物語になっていました。
そして彼は、その知恵をもとに隣人に祝福の手を差し伸べたり、道を説いて人々を救ったりするようになります。
まったく目立たない存在ではあるものの、村人の生活に影響を与えるようになっていました。
あるとき、この村出身の高名で徳のある詩人が、予言の人ではないかと言われてやってきました。
詩人と彼は話が合い、彼はこの詩人こそ予言の人だと確信しますが、その顔は巨巌の顔とは全く違っており、彼は落胆します。
その日の日暮れ、彼はいつもどおり村人に説教を行いましたが、その言葉は生命の言葉であり、高尚な調子の詩でさえあることに気づいた詩人は、抑えきれない衝動に駆られ「彼こそが予言の人、紛れもない巨巌の顔だ!」と叫んだのです。
その瞬間、村人たちは初めて気づきました。
一人の凡人、それ以上の者ではないと認識されていた彼。
しかし、己を修めるための長い時間の慎独により、高貴さや偉大な真理を習得し、予言の人物へと成熟していたのです。
誰に教わったわけでなく、まして学校でもない
ただひたすら一人で己を修め、無我で天道を行う
一人一人が高貴さや徳を身に付け、それを基盤にして社会を構築していく姿こそが理想郷ではないでしょうか。
この道から外れてしまうと、己を修めずに他者を修めようとして自我が顔を出し、結果的に混乱が生じます。
肉体がどう不自由であろうと
強制されようと
こき使われようと
心、精神を磨くことで人生は輝くのです。
だからこそ自由はかけがえのない大切なものです。
決して
思想を統制するような
社会にしてはいけません。