責善の言は、尤も宜しく遜以て之れを出すべし。絮叨すること勿れ。讙呶すること勿れ。〔晩録二三四〕
(善行を行うように勧める言葉は、なるべくへりくだって言うべきである。回りくどく話してはいけない。わめき騒ぎ立てるように言うのもよくない。)
*絮叨:多弁・饒舌。
*讙呶:かまびすしい。さわがしい。
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
私は善行ができていません。
道端の塵を拾うようなことは稀です。
花も植えていません。
木も植えていません。
歩いているとき、道を譲ることはあまりありません。
譲るよりも自分が先に行った方が全体の流れが滞らないと考えてのことです。
ただしかし、他の人の目には、自分勝手な振る舞いと映っているかも。
挨拶はしています。
ただ、相手が挨拶を返したくなるようなものではないかもしれません。
自己満足のためだけかも。
「ありがとうございます」という感謝の言葉よりも「すみません」言ってしまいがちです。
相手の行為を蔑ろにしてしまっています。
季節の贈り物もほとんど行っていません。
全国各地の特産物や旬の品などは、今やたやすく入手できるし、相手の好みに合わなければ逆に迷惑がられると思うからです。
贈り物とはそういう意味でしたでしょうか。
違うはずです。
相手を思いやり、笑顔になってもらうためのものでしょう。
なぜ私は花を植えないのでしょうか。
花の美しさ、懸命に生きる姿、その上でのやさしさ、そんな花の姿を感じ取れていないから。
なぜ私は木を植えないのでしょうか。
成長した木に生き物が集まり、生命の循環を生み出す力に、何も感じないのか。
木がさらに大きく育てば、実りをつけて、もっと多くの命を育むというのに。
人が一休みできる木陰もできるというのに。
老人が松の苗木を植えていた。
通りがかった君主が老人に年齢を尋ねた。
「八十五になります」
君主は笑った。
「その松が立派な木材になっても、自分では使えないだろうに」と。
八十五翁はいった。
「国を治めている人のお言葉とは思えませぬ。
私は自分のためではなく、子孫のために植えているのです」
君主は恥じ入るほかはなかった。
<出典:「人生の法則」藤尾秀昭著 致知出版社〔人を育てる〕より
原典は「産語」太宰春台>
しっかり目を開こう。
生まれて以来、われわれは太陽や、植物や、空気や水など、周囲のすべてに奉仕をされて生かされてきたのである。
もっとすべてを大切にしてささげる心で生きよう。
求めるだけでは、人生はあまりにもさびしい。
だが与える心は人生に、ひそかな喜びをもたらし、明るい光を投げて人生を一変する。
無色の人生に七色の花を咲かせるのである。
<出典:「平澤興一日一言」平澤興著 致知出版社 十一月二十五日より>