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COLUMNSブログ「論語と算盤」

死から生

2021年6月25日

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当らぬは、犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにする事は及ばざる事なり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。若し図にはづれて生きたらば腰抜なり。この境危きなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり、毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。

(武士道の根本は、死ぬことにつきると会得した。死ぬか生きるか、二つに一つという場合に、

死を選ぶというだけのことである。別段、むずかしいことではない。腹をすえて進むまでである。

「目的をとげずに死ぬのは犬死だ」などというのは、上方風の思い上がった武士道である。

二つに一つという場合に、絶対見通しを誤らぬなどということは、できるものではない。

もし理屈をつければ誰しも死ぬよりは生きる方がよいのだから、

なんとかして生きていられるような理屈を考えるであろう。

 そうして見通しが外れ、しかも生きていたときには、あれは腰ぬけだといわれても仕方あるまい。

ここが危うい瀬戸際である。

 これに反して、死をえらんでさえいれば、たとえ見通しを誤って犬死だ、気違いだといわれようとも少しも恥にはならない。これが武士道を心得た者のとる道である。

 真に武士道を身につけるためには、毎朝毎夕、くり返し命を捨てた心持ちになる修行が大切である。このようにして、はじめて武士道が身につき、

一生誤ることなく奉公をつくしおおせることができるのである。)

<出典:「葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

葉隠といえばこの一句と言われる言葉です。

 

現代訳を読み込んでみると、武士が、武士として恥をかかないための

正しい身の振り方と解釈できます。

 

その一方、現代に生きる私たちに対し、強烈に、内省を求めているように感じます。

 

 

 編著の神子侃氏による、「‘生命尊重’の掛け声に安住して実は生命が浪費されている現代に対する痛烈なアイロニー」、「現代に生きる我々の不幸は、身命を投げ出すに足りるほどの明確な理想、目標を見出しえずにいることではないだろうか」という意見は、まさにそのとおりです。

 

 

 マハトマ・ガンディー(インド独立の父:18691948)は、

「明日、死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」

という言葉を遺しています。

 

 スティーヴ・ジョブズ(アップル創業者:19552011)は、

「もし今日が最後の日だとしたら、今からやろうとしていたことをするか?」

と毎朝鏡の自分に問いかけたとのこと。

 

 

 今日の言葉をそのまま現代に持ち込んでも、多くの人に理解を得るのは困難でしょう。

ただし、当時の武士道として当然の如き内容であったはずですし、ガンディーやジョブズにおいても、死を意識して生きる、自分の命を燃やし尽くすという考え方は共通しています。

 

 

 易経からの引用です。

剛柔ごうじゅうあいわり、典要てんようとなすべからず、ただへんくところのままなり。」

 

       (陰陽は常一定でなく、時に転化するものである。

ある時は良いとされるものが、ある時は悪いとされる。

        物事の変化動向を正しく見極めるには、良し悪しの固定観念を捨てて、

混沌とした変化をそのまま見つめることが大切なのである。)

<出典:「易経一日一言」竹村亞希子著 致知出版社>

 

 

「私たちの今の考え方が常識的で正しい」というのは、今を生きる人にとっては好都合です。

  

ただしそれが、一人一人、各々の一生にとっての真理であるかは、往々にして疑わしいものです。