子曰く、夷狄の君あるは、諸夏の亡きが如くならざるなり。
(先師が言われた。夷狄の国に立派な君主があって秩序が保たれているのは、
中国で君主がありながら、ないがしろにされて国が乱れているような嘆かわしいものではない。)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
この一節には相反する解釈があるようです。
中国周辺の異民族(東夷、西戎、南蛮、北狄)には君主がいて秩序が保たれているらしいが、中国に君主がいないとしても、それでも中国文化の方が優れているという解釈と、上記の訳のように、孔子が中国の現状を嘆いているという解釈です(参考:吉田公平著「論語」たちばな出版)。
前者の解釈は、今の中国共産党のような姿勢で傲慢さがうかがえます。後者の方が、中国古典の教えからすると適切でしょう。
それはさておき、集団のリーダーがないがしろにされる状態は、その集団のまとまりの無さを表しています。
リーダーに徳があるかどうかも重要な要素でしょうが、集団を構成する一人一人の考え方からの影響も大きいと思われます。
集団とそれを牽引するリーダーのあり方は多様です。国、会社組織、地域社会、そして家庭。
特に家庭は社会における最小単位の集団であり、その中で育つ子供たちはリーダーである父母の姿・あり方から集団の特性を学んでいくものです。
つまり、地域社会や家庭における私たち大人の心構えや振る舞いは、今後の日本を創っていく子供たちの将来に大きな影響を与えることになります。
仏教詩人の坂村真民さん(1909~2006)の詩に、「本気、本腰、本物」という作品があります。
自分の仕事、取り組んでいる事柄に対して、全身全霊を投じることこそが「本気」です。
「本気」になれる対象は、自分が探して見出すものです。誰かが教えてくれる類のものではありません。もしかすると、日常の些細な事柄が生涯を賭すべき対象になるかもしれないのです。
取り組むには「本腰」を入れねばなりません。これは自分が全責任を負うということです。
他人や環境のせいにするのは空虚であり、まったくもって本腰とは言えません。
これらのことをやり通していくことが「本物」の証です。
詩の中では、絶体絶命の瀬戸際に追い詰められてこそ本物になるとされています。追い詰められてこそブレることのない、揺るぎない思いが確立するのです。
外からの影響に惑わされず、コツコツと自らに向かって進んでいくことが「本物」の条件でしょう。
皆が「本物」を追い求めれば、集団の秩序は自ずと確立されるはずです。
「本気、本腰、本物」をめざしましょう。
まだまだ遅くはないはずです。