子、漆雕開をして仕えしめんとす。對えて曰わく、吾斯を之れ未だ信ずること能わず。子説ぶ。
(先師が漆雕開に仕官をすすめられた。
漆雕開が答えて言った。
「私にはまだ仕官するだけの自信がございません。今暫く先生の許で勉強させて下さい」
先師は(学へのあつい志を知り)喜ばれた。)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
孔子は、漆雕開の学びに対するあつい志を喜んだとのことですが、この見方には色々あると考えます。
孔子としては、仕官しても大丈夫だから推薦しようと判断した上でのことでしょう。
そして、現場で現実に揉まれて、さらに力を付けることができる、修養を増すことができるという配慮もあったでしょう。
つまりは巣立ち、卒業の時期だと判断したのではないかと思います。
一方、漆雕開とすると、たくさんのことを学び、今も学び続けている最中なので、いま仕官せよと言われても、持ちうる知識を活かす術が見えていないのかもしれません。
また、孔子の門人として世に出る以上、いわゆる即戦力として物事を適切に処していくことが求められるでしょう。
国を守り、貢献する一員としては、まだ力不足と考えたのかもしれません。
決して怖気づいているのではなく、仕官としての役割そのものに焦点を絞り、多くの知識を整理し、集約や収束により知恵へと昇華させるための時間が必要だったではないでしょうか。
孔子が喜んだのは、そのような漆雕開の思慮深さ、慎重さ、そして誠実さを感じ取ったからではないかと考えます。
この場面は、視野を狭くして見るか、広げて見るかによって、違った景色になってきます。
自分の子が成人したので、家を出て独り暮らしで自立することを薦めたとしましょう。
ところがその子は、三食付きで楽だから出たくないと。
それを許容したなら・・・。
月刊誌致知2022年12月号で、サッカー日本代表元監督で現FC今治オーナーの岡田武史氏と、現侍ジャパントップチーム監督の栗山英樹氏の対談記事が掲載されていました。
テーマは「稲盛和夫氏から教わった人生で大切なこと」です。
その中で、お二人が印象に残った言葉を挙げられています。
「小善は大悪に似たり
大善は非情に似たり」
栗山氏は、日本ハムの監督であった昨年の一年間、清宮選手をあえて二軍のままにしたそうです。
我慢して厳しい環境に置いたのは、自分で考えて成長できる選手のはずだから、とのこと。
岡田氏は、横浜F・マリノスの監督のとき、チームに残りたいと言う何人かの選手を他チームに移籍させたそうです。
他チームならたくさんの試合に出られ、その方が本人のためになると考えた末の決断とのこと。
「稲盛さんは、本当に相手のことを思うなら、獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすが如く、厳しく当たらなければいけないとおっしゃる。」(岡田氏)
パワハラですか?
そうではないはずです。
これをパワハラと感じる人には使えません。
その人は残念ながら、自らと対峙する機会を失います。
この思い
あなたの腹の中にもあるはずです。
選手の人間的育成など考えないプロチームもあります。
勝つために、出来上がった選手を集めようとします。
私たちがそれに違和感を感じるのは
今日の言葉の意味を大切に思っているからです。
深く思い
深く考え
深く思いやる
人としての深さで人を活かす
そういう人物になりたいと願います。