ある山中を座頭ども十人ばかり連れ立ち通り候が、崖の上を通り候時、皆々足ふるひ、大事にかけ、肝を冷やし参り候処、真先の座頭踏みはづし、崖に落ち申し候。残りの座頭ども声を揚げ、「やれやれかはいなることかな」と泣きさけび、一足も歩み得申さず候。その時、落ちたる座頭、下より申し候は、「気遣ひ召さるるな。落ちたれども何の事もなし、なかなか心安きものなり。落ちぬ内は大事を思ひ、落ちたらば何とすべきと思ひし故、気遣ひ限りなく候が、今は落着きたり。各も心安くなりたくば、早く落ちられよ」と申し候由。〔聞書第十〕
(座頭が十人ばかり連れ立って山道を行き、崖の上にさしかかった。みな足がふるえ、用心しながらおそるおそる進んでいったが、先頭の座頭が踏みはずし、崖から落ちてしまった。
あとに残った座頭たちは、「やれやれ、かわいそうに」と泣きさけび、一歩も進めなくなってしまった。
そのとき落ちた座頭が下からどなった。
「心配するでないぞ。落ちたが、なんのこともなく、かえって気楽なものだ。落ちぬうちは用心し、落ちたらどうしようかと思っていたから、心配でたまらなかったが、いまは、すっかりおちついた。おまえたちも、気楽になりたかったら早く落ちるがいい」)
<出典:「続 葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
久しぶりに「続 葉隠」からの言葉です。
深い教えと感じます。
いま持っているもの、例えば財産、地位や肩書など、生きて行く上では単なる飾り物なのですが、いざ失うことを考えると恐れを感じるものです。
何とか失わないようにと、そのことばかりに気を取られてしまいます。
実際に失ったら・・・
嘆くだけですか
冷静にその状況を真正面から見つめ、観察できたなら、今までいかにつまらぬものに執着していたかに気付くことができるでしょう。
実は与えられた結果としての現状を
さも自分が積み重ねたものと履き違え
それを失うのが怖くて一歩も進めない
そういう自分が見えたなら、しめたものでしょう。
そしてそのとき初めて、自分がやらねばならぬこと、進んでいくべき道が見えるのでしょう。
結局のところ
人生は裸一貫
死ぬまで歩み続けるだけ
天上天下唯我独尊
大いなる創造者である天と語り合いながら
天道を真っ直ぐに歩んでいく
平々凡々とした日々を送るだけならいっそ死んでしまおうと考えるとき、平凡たらしめている理由、そしてその平凡を打ち破るために何をなすべきかについて考えることが大切です。
安閑とした日々を送っているうちは難しいかもしれませんが、時折、自分の心の声が聞こえることもあるでしょう。
飾り物を脱ぎ捨て
澱を払い去り
五体のみを頼りに
ただ一本の道を往く
人生という航海は、いつからでも何度でも始められます。
人生に後悔しないよう
航海に出る
出航は今日ですか