子游曰わく、君に事うるに數すれば、斯に辱しめらる。朋友に數すれば、斯に疏んぜらる。
(子游が言った。「君につかえて、しばしば諫めると、却ってはずかしめられるようになる。友達に対してしつこく忠告をすると、嫌われうとんぜられるようになるものだ」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
今日の言葉は本当に難しいと感じます。
仁義礼智信にもとづくものとして目上の人に諫言すれば、それがいかに正しくとも、逆に軽んぜられ、辱めさえ受けてしまうのです。
目上の者にとっては、組織としての威厳と自らの地位を守るための対処法です。
そして平常時においては、安泰の維持のために必要な対処でもあります。
仮に、何人かいる場面で、目上の人に諫言したとしましょう。
目上の人の対処は二つに分かれます。
一つは、自らの度量の大きさを示すために、その諫言を受容するそぶりをするというものです。
しかし、それをそのまま受け入れてしまうと、諫言した者の賢明さを認めることになり、指南役つまり№2という認識になりかねません。
すると、組織の執行層の中に序列が生じ、執行層各人の関係性に波風が生じます。
それはやがて執行層内の争いに発展するかもしれず、長である自らの立場も危うくなります。
そのため、受容したように見せかけながら、適当な時期にその諫言した者を貶めるのです。
もう一つは、その意見は核心ではないと断じ、無視か否定するかというものです。
次に、一対一の場面、差し向かいの状況で諫言した場合はどうでしょう。
それが正しい意見であっても、目上の者はやはり聞き流す程度です。
それを受け入れてしまうと、その諫言者が皆に吹聴する可能性があるからです。
このように、組織運営のための枠組みを維持することが第一であり、その枠組みを脅かす要素は排除されるのです。
いずれにせよ、諫言者は浮かばれません。
そしてなにより、一国あるいはその組織が良い方向に向かわなくなるという点が問題です。
どんな正論であったとしても、このようなやり方では諫言は通りません。
ここにおいて、諫言者は爪を出さずに隠し通さねばならないことがわかります。
2021年7月30日と8月17日に述べた「葉隠」の言葉を改めて思い出します。
人に意見をして、その欠陥を改めさせるというのは難しいということです。
人に意見をする際には、相手がそれを受入れる気持があるかどうかが前提となります。
まずは、そのような土壌作りから始めなければなりません。
その上で、伝える時期、口頭か手紙か、どういう言い方をするか、例えば自分自身の失敗談を引き合いにして思いあたるようにさせるなど、大いなる工夫と配慮が必要です。
これが本当の意見であり、大変にむずかしいものとのこと。
このような心遣いなく、無神経に諫言や忠告をして、いたずらに相手に恥をかかせてしまっては、組織あるいは相手を良くしてあげようという大慈悲の目的達成につながりません。
例えて言えば、西洋医学のようにバッサリ斬り倒すのではなく、東洋医学のように徐々に良くしていくようなアプローチが望ましいということです。
「目的」を達成するためには、
その「手段」をよくよく考慮し、
設計してから行わねばせねばなりません。
私自身も大なる反省が必要です。
「自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、
万般の作業に参学すべき宗旨あることを一定するなり。」
(自分の考えるところをもって、他に考えようはないなどと思ってはならない。
のみならず、さまざまな営みにもいろいろと学ぶべきことがあると確認しなければならない。)
<出典:「道元一日一言」大谷哲夫編 致知出版社>
〔五月十日〕