大象を執りて天下に往く。往きて害せず。安平泰なり。樂と餌と、客過ぎて止む。道の言に出づる、淡乎として其れ味無し。之を視れども見るに足らず。之を聽けども聞くに足らず、之を用うれどもつくす可らず。〔執大象章第三十五〕
(形にない形、真に偉大なる形、それを手にして、天下にこれを行おうとする。道というものは、どこへ往っても人から害されることはない。これこそ、安楽、平穏、泰平である。
音楽やごちそうは、客をもてなすものではあるが、客が立ち去ればそれっきり、そこで終わり。道はそれとくらべて、客に提供したところで、淡白でなんの味もない。これを一見したところ、いかにも見るに足りないよう、耳で聴いてもなんら聞くに足りないようではある。しかしながら、道を実際の世に用いた場合、これは音楽やごちそう、そういった世俗のものとは違って永遠に尽きることがない。)
<出典:「老子講義録 本田濟講述」読老會編 致知出版社>
道は形なく
見えず
聞こえない
だから害されない
だから安泰
このような安泰が、この世の、この宇宙の常態なのでしょう。
そしてそれは永遠です。
認識されることなく
形としてまとまることなく
何かを発することもない
確かに、形にすれば美しくなり、自分の思いも整理されます。
ただ、形になってしまったものは、いつか崩れます。
にぎやかな宴は楽しいものです。
しかし、やがては終わります。
道は永遠
道に沿った生き方は永遠を与えてくれるでしょうが
人類の進歩、進化、営みは真逆にならざるを得ません。
だからこそ、道の原理を心の奥底に納めることで
安楽で、平穏で、泰平な日々を過ごすこと、
道と同化する瞬間を感じ取ることが大切なのではないでしょうか。
縄文時代の遺跡から、当時の生活の様子が少しずつわかってきているようです。
しかしながら、本当のことはわからないのではないでしょうか。
ただ、一万年にわたり争いごとがなかった時代とのことです。
害することなく、害されることなく、生を全うしたのでしょうか。
過去のことはわかりません。
未来のことも。
道がすべての母であり
永遠であることを知り
そして今日を生き抜く
私たちにはそれしかできません。
人生はそれに尽きる。