聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚も企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦に臨みて逃るより猶お卑怯なり。朱子も、白刃を見て逃る者はどうにもならぬ、と云われたり。誠意を以て聖賢の書を読み、その処分せられたる心を身に体し、心に験する修行致さず、唯个様の言、个様の事と云うのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予、今日人の論を聞くに、何程尤もに論ずる共、処分に心行き渡らず、唯、口舌の上のみならば少しも感ずる心之れ無し。真にその処分有る人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空く読のみならば、譬えば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず、自分に得心できずば、万一立ち合えと申されし時、逃げるより外有る間敷也。
(歴史を学ぶことは大切だが、昔の人が行った歴史をただ書物の上の知識として得るだけでは意味がない。聖人賢者になろうというような高い志がなく、最初から「自分にはとても真似出来ない」と思うような気持であったら、戦いに臨んで逃げる敵前逃亡より、なお卑怯なことだ。
朱子(中国・南宋時代の儒学者)は「抜いた刀を見て逃げ出すような者はどうしようもない。真剣勝負のできぬ卑怯者である」と言われているが、それと同じだ。誠意をもって聖人賢者の書を読み、その一生をかけて行われたことの心髄を自分自身の手本として、身に体験するような修行をしないで、ただ「こんな言葉を言われた」とか、「このようなことがあった」という事を知識として知っているばかりでは何の役にも立たない。
私(南洲翁)は今、人の言うことを聞くと、いかにももっともらしく論じようとも、その行動や実践に心がこもらず、また精神や理念が行き渡っていないように思える。そんな、知識を吹聴して行動を伴わない、ただ口先ばかりのことであれば少しも感心しない。
逆に、本当に聖人賢者の行動を心から手本とし、自らの行いにしようという志のある人を見れば、(雄弁でなく、知識に乏しくても)実に立派だと感じるものである。
昔の聖人賢者の書を、ただ上辺だけなぞり読むのであったら、ちょうど他人の剣術を傍から見ているのと同じで、少しも自分の身につかない。自分の体を動かして剣を振るい、鍛錬しなければ剣は上達しないのは明らかで、万一「刀を持って立ち合え」と言われた時、逃げるよりほかないであろう。)
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
ただ知っているだけでは何の意味もない
その知識を自らの生き方に活かしてこそ
そう指摘されています。
鹿児島の知覧から飛び立った特攻隊員の辞世の句
国のため
捨てる命は
惜しからで
ただ思わるる
国の行く末
この世を去った古人は、有名無名を問わず、皆自分の国の行く末を案じたはずです。
その思いをしっかりと抱き後世に繋げるには、古人の教えを理解して、日々の生き方に反映させることです。
古人の思いを理解し
古人の知恵を活かす
古人とともに人生を歩み
命をつなげていく
こうでなければ、人類は恐らく、過去と同じ過ちを繰り返すだけです。
西郷さんは、最初から志なく、知識だけを得て吹聴するような者を卑怯者と断じています。
口先だけの人間になってはならない、実践で活かしてこそ真の学ということです。
「『知は行の始めなり。行は知の成るなり』という王陽明の説明がある。「知」というものは行ないの始めである。「行」というものは「知」の完成である。これが一つの大きな循環関係をなすものである。
知から始まるとすれば、行は知の完成、そしてこれは行の始めが知だから、知というものは循環するわけです。本当に知れば知るほどそれは立派な行ないになってくる。知が深くなれば行ないがまた尊くなる。」
<出典:「安岡正篤一日一言」安岡正泰監修 致知出版社>
〔三月十日より〕
知りて行い、行いてまた知る
古人の知恵を活かす
「日本に生まれてきてよかったと
言えるような国造りをしよう」
<坂村真民>