平日道を踏まざる人は事に臨て狼狽し、処分の出来ぬもの也。譬えば近隣に出火有らんに、平生処分有る者は動揺せずして、取仕末も能く出来るなり。平日処分無き者は、唯狼狽して中々取始末どころには之れ無きぞ。夫れも同じにて、平生道を踏み居る者に非れば、事に臨みて策は出来ぬもの也。予、先年出陣の日、兵士に向い、我が備の整不整を唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝て見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。
(常日ごろ道義を踏み行わない人、正しい生き方を行わない人物は、異変や不測の事態に出くわすと、あわてふためき、何をしてよいか分らぬものである。
例えば、近所に火事があった場合、かねて心構えのできている人は少しも動揺することなく、これに対処することができる。だが、心構えのできていない人は、おろおろと狼狽して、何をしてよいか分からず的確に対処することができない。
それと同じで、日ごろから正しい道を踏み行っている人でなければ、大きな出来事に出合った時、優れた対策は取れないものだ。私(南洲翁)が先年、出陣の際に兵士に向かって言ったことがある。
「自分たちの防備、戦闘態勢が十分であるかどうか、こちらの味方の目で見ないで、敵の視点に立って一つついて見よ。どう攻めるかを考えれば、弱点も見えてくる。それこそ最良の防備である。」
そう訓示して聞かせたのだ。
<出典:「西郷南洲遺訓」桑畑正樹訳 致知出版社>
強かさとは何でしょうか。
以前、ある経営者に問われて考えたことがあります。
そのときは適切な返事ができませんでしたが、今日の言葉にヒントがあるようです。
主体となる側の者は、自組織の強みに目が行くものです。
勝利すれば、その強みの裏付けを得たとばかりに美酒に酔い、疑うことはありません。
しかし、ここに落とし穴があるのは明白です。
他方、客観する側の者は、その組織の弱みに目が行くものです。
よって、評論家や学者の見解は、たぶんに悲観的なものになります。
以上から、主体側は客観的視点を持つことで、落とし穴を埋めることが可能になります。
これが西郷さんの訓示です。
さらに強かさの条件を考えてみます。
人は苦境時には滅入りがちです。
悪いことばかり思い出し、自分の弱さを嘆きます。
しかし他者から見ると、当の本人の自虐的思考は行き過ぎと感じることが多いものです。
悲観し過ぎているため、苦境を乗り越える力を生み出すことができません。
そういう苦境時こそ、客観的観点から自らの強みや良さを確認すべきです。
たとえ小さなものであったとしても、いくつか見出すことができれば、徐々に大きな力に変えられるはずです。
逆に順境時は鼻高々、自信ある言動が多くなります。
その行き過ぎた振る舞いを見る他者は、軽蔑するかもしれません。
順境時こそ、自らの弱みをきちんと見直して、やがて訪れる逆境に備えることが必要です。
時の流れは陰と陽を繰り返します。
そして一つの事象にも陰と陽の両側面があります。
強かさとは
様々な局面について
侮ることなく怯えることなく対峙し
平生は道義を踏み行い
正しい生き方を行うこと
これにより培われるのでしょう。