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COLUMNSブログ「論語と算盤」

狂の証を刻む

2022年4月15日

出し抜きに首打落されても、一働きはしかと成るはずに候。義貞よしさだ最期さいご証拠なり。心かひなく候て、そのまま打倒ると相見へ候。大野おおの道賢どうけんが働きなどは近き事なり。これは何かする事と思ふぞ唯一念なる。武勇のため、おんりょうあっとならんと大悪念を起したらば、首の落ちたるとて、死ぬはずにてはなし。〔聞書第二〕

(不意に首を打ち落とされても、なおひと働きは確実にできるはずである。足利氏と戦って自刃した新田義貞にったよしさだの最期がその証拠である。心のはりを失ったならば、義貞はそのまま倒れてしまったところであろう。

 近い例では大阪落城のさいの大野道賢おおのどうけんの働きがある。

 「なんとしても」という気持ちがこりかたまって、「一念」となる。武勇に徹し、死んで怨霊悪鬼になろうと大悪心を起こしたならば、首が落ちようとも、すぐには死なぬはずだ。)

※新田義貞の最後・・・流矢に当たった義貞は、いまはこれまでと自ら首をかき切り、その首を泥中にかくし、その上に横たわったと『太平記』は記している。

※大野道賢の働き・・・豊臣秀頼に仕えていた大野道賢は大阪落城で捕われ、家康を面罵して火あぶりとなったが、黒焼きになったあと、検使にとびかかり、その脇差を抜きとって刺殺し、たちまち灰になったという(聞書第十)

<出典:「続 葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>

 

 

 

 

「狂」の一念がなせる業

 

 

 

これほどの想いで生涯をつらぬくことができれば

 

それは最上の幸せでしょう。

 

 

命をして、自らの誇りを守り、生の意義を噛みしめ、一念を果たす

 

 

 

正気では、成し得ません。

 

 

 

正気の範疇で生きていきたい。

  この気持ちもわからないではありません。

    ただし、それは本当に「正しい気」でしょうか。

 

 

 

生涯を通して一念のために「狂気」で生きる

 

価値ある素晴らしい人生と言って過言でしょうか

 

 

 

 

一度きりなのです。私たちの人生は。

 

 

そうであればこそ

  つまらぬ常識、ありきたりの感情、生ぬるい価値観の中で

    ただ漫然と、ぼんやりと

      生の時間を消費していく・・・

 

 

あまりに愚かでは

 

 

 

「一人物の死後に残り、思い出となるのは地位でも財産でも名誉でもない。

   こんな人だった。こういう嬉しい所のあった人だというその人自身、

 言い換えればその人の心・精神・言動である。

このことが、人間とは何かという問いの真実の答になる。」

 

<出典:「安岡正篤一日一言」安岡正泰著 致知出版社>

 

 

 

一度きりの我が人生

 

狂において

 

人間としての証を

 

この地に刻み込みたい