出し抜きに首打落されても、一働きはしかと成るはずに候。義貞の最期証拠なり。心かひなく候て、そのまま打倒ると相見へ候。大野道賢が働きなどは近き事なり。これは何かする事と思ふぞ唯一念なる。武勇のため、怨霊悪鬼とならんと大悪念を起したらば、首の落ちたるとて、死ぬはずにてはなし。〔聞書第二〕
(不意に首を打ち落とされても、なおひと働きは確実にできるはずである。足利氏と戦って自刃した新田義貞の最期がその証拠である。心のはりを失ったならば、義貞はそのまま倒れてしまったところであろう。
近い例では大阪落城のさいの大野道賢の働きがある。
「なんとしても」という気持ちがこりかたまって、「一念」となる。武勇に徹し、死んで怨霊悪鬼になろうと大悪心を起こしたならば、首が落ちようとも、すぐには死なぬはずだ。)
※新田義貞の最後・・・流矢に当たった義貞は、いまはこれまでと自ら首をかき切り、その首を泥中にかくし、その上に横たわったと『太平記』は記している。
※大野道賢の働き・・・豊臣秀頼に仕えていた大野道賢は大阪落城で捕われ、家康を面罵して火あぶりとなったが、黒焼きになったあと、検使にとびかかり、その脇差を抜きとって刺殺し、たちまち灰になったという(聞書第十)
<出典:「続 葉隠」原著 山本常朝/田代陣基 神子侃編著 徳間書店>
「狂」の一念がなせる業
これほどの想いで生涯を貫くことができれば
それは最上の幸せでしょう。
命を賭して、自らの誇りを守り、生の意義を噛みしめ、一念を果たす
正気では、成し得ません。
正気の範疇で生きていきたい。
この気持ちもわからないではありません。
ただし、それは本当に「正しい気」でしょうか。
生涯を通して一念のために「狂気」で生きる
価値ある素晴らしい人生と言って過言でしょうか
一度きりなのです。私たちの人生は。
そうであればこそ
つまらぬ常識、ありきたりの感情、生ぬるい価値観の中で
ただ漫然と、ぼんやりと
生の時間を消費していく・・・
あまりに愚かでは
「一人物の死後に残り、思い出となるのは地位でも財産でも名誉でもない。
こんな人だった。こういう嬉しい所のあった人だというその人自身、
言い換えればその人の心・精神・言動である。
このことが、人間とは何かという問いの真実の答になる。」
<出典:「安岡正篤一日一言」安岡正泰著 致知出版社>
一度きりの我が人生
狂において
人間としての証を
この地に刻み込みたい