子曰わく、君子、重からざれば則ち威あらず、學べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿れ。
(先師が言われた。
上に立つ人は、言動を重々しくしないと威厳が無くなる、学べば独善、頑固でなくなる。
忠信を第一とし、安易に自分より知徳の劣った者と交わっていい気になってはならない。
そして過ちに気がついたら改めるのに誰にも遠慮はいらないよ。)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
自分が仕えたい人、その理想的な人物像はどんなものでしょう。会社なら直属の上司や社長、学校なら級長や生徒会長、部活動の主将など、思い浮かべてみてください。
仕える側からすると、少なくとも軽々しく見られる人物でないことを願いたいものです。
自らが所属する組織の長が、外部から叱責されたり指導を受けたりすると、所属メンバーはやるせなくなります。もちろん、誤解から生じたものなら別ですが、その長自身の不注意や甘い心がけから生じたものなら絶望的です。
このような場面における、配下メンバーの立場は、本当に情けないものです。
今日の言葉ですが、実は個人的感覚からすると、意図的に重々しく見せるというのは間抜けがやると偉ぶって見えるだけなので、いかがなものかと感じていました。
ただし、上述のように、仕える者の立場としては、上に立つ者は、他者から敬われる人物であるほど望ましいのです。
そのような深みのある重厚な人物が長にいる組織に所属する、そのこと自体が誇りに思えます。
上に立つ人は、それを自覚し、そうあらねばなりません。
また、自分より年下との交わりの中で、横柄であったり見っともない言動を見せたりする者も君子ではなく小人の類となるでしょう。
年長者を敬うのは世界共通の道徳であり、人生経験が長ければ大なり小なり知見は多いはずです。にもかかわらず、先輩風を吹かす態度、自覚が無い態度などは哀れで愚かなものです。
戦後、我が国の政治経済など多方面に大いなる影響を及ぼした人物学の大家である
安岡正篤氏は、「to do」よりも「to be」が重要とされました。
(何をするかではなく、どうあるべきか)
また、株式会社ことほぎ代表の白駒妃登美氏は、天命追求型の生き方では、西洋の目標達成型哲学である「for me」ではなく、「for you」が優先すると言われます。
「周囲の人のために、自らはどうあるべきか」
修練すべき一つとして心掛けておきます。