余の義理を沈思する時は、胸中寧静にして気体収斂するを覚え、経書を講説する時は、胸中醒快にして気体流動するを覚ゆ。
(自分が正しい道筋について深く考えるときは、胸中が静かで穏やかになって、
心も体も引き締まるように感じられる。
また、経典を講義するときは、胸中がすっきりと爽やかになって、
心も体も活発に働きめぐるように感じられる。)
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
日常とは、仕事、私生活ともに、思い通りにならないことばかりと感じます。
そんな中、自分の在り方、他人との関わり方、世の中の捉え方などについて深く考える時間が得られたとき、たとえ答えが出なくても晴れやかな気持ちになれます。
静寂さが残る明け方、夕方に仕事場から歩いて帰っている最中、風呂に浸かりながら振り返るときなどなどです。
そのときの考えが、決意や覚悟まではいかなくとも、自分の心を占めるようになれば、もっと味わいのある成熟した人間に近づけるのに、と思うばかりです。
いつも反省しきり、明日こそはと思っても、なかなか思うとおりに自分を動かせられません。
しかし、自分の心の中心にある思いに従った取り組みをやれないのなら、生まれ出でた自分の人生に果たして価値はあるのか、いやないだろうと感じます。
背負うべき荷をしっかり背負い、一歩一歩自分のやるべきことを進めることで、自分がいま一度脱皮できるはず、次のステージに進むことができるはずと思います。
残りの人生、今後の世の中に役に立つ仕事をしたいと思います。
決して綺麗ごとを言うつもりはありません。ただ、もう一度生まれ変われるのなら、やはりこの日本に生まれたいからです。
徒然草に「死は前よりしも来らず、かねてうしろに迫れり」とあるようです。
満ち潮のように、ふと気が付いたときに訪れる死、
そのときにまで、一つずつ積み上げていくことが「道」なのでしょう。