Loading

COLUMNSブログ「論語と算盤」

あやまちが語ること

2021年12月14日

のたまわく、人のあやまちや、各々おのおのとうおいてす。過ちをここに仁を知る。〔里仁第四〕

(先師が言われた。「人の過ちは、それぞれの仲間や心がけから出るものである、従って過ちの内容を観て、その人の仁、不仁がわかるものだ」)

<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>

 

 

 

人は、過ちを犯します。

 

過ちのない人生などというものはありません。

 

 

人が必ず犯してしまうことを、過ちという名目で責めること、

これには相当に深い意味があると感じます。

 

 

その人を愛するがため、想いやるがために、手を下してしまった過ち。

 

このような場合、私たちは如何ともしがたい思いを覚えます。

 

 

 

 天道は、その機能として、生きとし生けるものを無条件に生み出します。

 

その天道のもと、

人道においては、人間という生物が生きていくための必要な規則を設定します。

 

 

それが法律です。

 

 

 人道としての法律の前では、たとえ仁から生じた過ちであっても、

 

厳格に処罰せざるを得ません。

 

 

過ちを犯した人が仁者であるのなら、

 

私たちには、おもんばかってあげることしかできません。

 

 

 

 

 他方、いきどおりを覚える過ちもあります。

 

日々、ニュースや新聞で目にする犯罪、あるいは政治家や著名人の過ち、

 

一見すると、多くの場合が不仁と映ります。

 

 

しかし、真の意味合いはわかりません。

 

メディアの表現に誘導されず、事実を把握しなければ判断はできません。

 

 

 

また、仁から生じた行為であっても、本人の言のせいで、

 

不仁からのものとみなされてしまうこともあります。

 

 

例えば、「責任を取るために辞任する」という言、

 

この説明、違和感が生じませんか。

 

 

 

責任は取るものではなく、果たすものです。

 

 

 

よって、正しくは「責任を果たせなかったため、辞任する」となるはずです。

 

裏返して考えると、「責任を果たせれば、辞任しない」となり、成立します。

 

 

しかし、「責任を取って辞任する」と言うのなら、裏返すと

 

「責任は取らない、だから辞任しない」となり、成立しません。

 

 

 「自分が泥をかぶるから終わりにしようぜ」というのは、

牧歌的、浪花節的な味わいを感じる人もいるかもしれません。

 

 

しかし、それは浅薄でしょう。

 

 

 

    「ぞくけんに生き、

さまざまならくを味わい、幸不幸の波に洗われながらも、

やがて息絶えるその日まで、まずたゆまず一所懸命生きていく。

 

そのプロセスそのものを磨き砂として、

おのれの人間性を高め、精神を修養し、

この世にやってきたときよりも高い次元の魂を持ってこの世を去っていく。

 

このことより他に、人間が生きる目的はない。」

 

 

 <出典:「稲盛和夫一日一言」稲盛和夫著 致知出版社>

 

 

 

人間は、様々な問題を抱えながらも、連綿とその生命をつなげてきています。

 

子々孫々、後世の人類には、

今の私たちより福の多い生命をつなげていきたいものです。