子曰わく、不仁者は以て久しく約に處るべからず。以て長く樂に處るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す。
(先師が言われた。「不仁の者は長く逆境におることはできない。又長く平安な生活をも続けることができない。仁者は安んじて仁を実践し、知者は仁の価値を知って仁を実践する。」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
仁でない人は、逆境に耐えられず、平穏な生活さえも維持できない
あくまで主観ですが、どうにも安定していない人、安易に金銭を得ようとする人、誰それが知り合いだと自慢するような人などに、今まで一定人数に出会ってきました。
それらの人を振り返るに、仁が無いと言う表現が妥当と感じます。
なぜ彼ら彼女らはそうなるのか、仁を得られないのか・・・。
一つには、機を見ていないと感じます。
常に一定の熱量と思考で行動しているように映りますが、
自分がいま人生の中で何をすべき時期かという視点が無いように感じます。
そのためか、彼ら彼女らは口数が多いという傾向があります。
こちらの心情などお構いなしに、
自分の主張や空虚な美味い話、自慢話を滔々と語ります。
仁とは、前回も述べたように、要するに「他者の心中を思いやること」です。
相手の心情お構いなしというのは、やはり不仁です。
もう一つ、仁を得られない理由、平穏な生活が維持できない理由として、
幸せに対する考え方が違っているようです。
自分はどうなれば幸せなのかについて、自分の基準で考えず、
他者との比較による相対的な基準、
そして巷にあふれる雑多で平均的な価値観に基づく思考のようです。
その基準に沿う自慢話をしているときは興奮し、
その瞬間、何か幸せのようなものを感じているのでしょう。
ところが、相手の反応が薄いと失望し、また次の自慢話を探したり、自慢話になるようなネタを得るために闇雲に動いたりしています。
しかし、幸せというものは一人一人の心の中にあるもので、
相対的な価値基準をあてにするようなものではありません。
自分が持っているものの全てを認識し、
その中に自分としての価値を見出し、暖め、育み、大事に扱うこと、
その日々の充実感こそが生きている証、つまり幸福ではないでしょうか。
そういう考えがあれば、平穏な生活こそ至上の幸福と感じられるでしょう。
謙虚に、誠実に、慎ましく、仁のある日々を送ることができるでしょう。
「九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、
人間はまずその不満を真っ先に口から出し、文句をいいつづけるものなのだ。
自分を顧みてつくづくそう思う。
なぜわたしたちは不満を後まわしにし、感謝すべきことを先に言わないのだろう」
<作家の故三浦綾子さんの言葉(致知メルマガ2021.04.02より)>
誰にでも心当たりがあるはずです。
本当に大事なことと、気付かされます。
仁者あるいは知者のごとく、
仁を心がけ、実践していけば、どんなにすばらしい日々となることでしょう。
~日常を丁寧に生きることが、そのまま芸術になる~
大熊玄(立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科准教授)
<出典:月刊「致知」>