子曰く、巧言令色鮮なし仁。
(先師が言われた。「ことさらに言葉を飾り、顔色を良くする者は、仁の心が乏しいものだよ」)
<出典:「仮名論語」伊與田覺著 致知出版社>
この言葉は、色々な場面で取り上げられます。極端には、詐欺師など人を騙す者を思い浮かべますが、それだけではなく、私たちが生活する巷に普通にいる「小人」がもたらす災いを避けるための教訓として捉えられます。
つまり、悪人の見分け方というほどではなく、君子か否かを判別する基準の一つとして受け取るのが良いでしょう。
ただ、現代は少々様子が変わってきています。具体的には、語り方、声色、表情、目線など、伝達や傾聴というコミュニケーション・スキルが発達してきているため、多くの人が上手な語りと柔和な表情で接してくる場面が多くなっているのです。
また、偉大な夢を持てば持つほど「にこにこ顔で命懸け」というのも深遠な言です(引用元:「平澤興一日一言」到知出版社)。
「巧言令色」=「鮮なし仁」とは言い難くなってきています。
そこで、もっとかみ砕いて理解しましょう。「上っ面を良く見せたり、飾ったりすることは、何か不都合なことを隠そうとしているのかも知れないよ」という意味合いでの解釈が適切ではないでしょうか。
ところで、では「仁」とはいったい何なのかという点が、やや気になりますよね。
孔子は、「仁」を明確には定義づけてはいません。論語では、顔淵第十二で顔淵(顔回)が仁の意義を問うていますが、孔子は「私利私欲に打ち克って、秩序と調和を保つ礼に立ち戻ること」と返しています。続いて、仲弓や司馬牛も同じように仁の意義を問いますが、孔子は各々が理解できるように、それぞれの弟子の習熟レベルに応じて、違った角度から回答しています。雑駁ながらまとめると、他者に敬意を払い、思いやり、言葉を慎み、くよくよすることなく、びくびく恐れないというような内容です。
よって、私利私欲を捨てきれない心、やましいことがあってびくびく恐れる心など、それらを気づかれないように「巧言令色」でごまかそうとしているから、気を付けようということになります。
ちなみに、「仁」や「礼」、さらには「忠」や「恕」という論語で重視される言葉は、全て明確に定義されておらず、漠然としています。しかし、そのように抽象的な表現だからこそ含蓄に富み、自分の中でより深く考えて捉えようという気にさせてくれるのです。
一人一人がそれぞれの思いの中で、自ら考える「仁」を持っていれば、今日の言葉「巧言令色鮮なし仁」が、さらに深みを増し、実生活で役に立ってくるものと考えます。
反対に、私利私欲を優先し、自己中心的で、自ら考える「仁」が無いのであれば、災いがそろりと近づいて来ます。