慎独の工夫は、当に身の稠人広坐の中に在るが如きと一般なるべく、応酬の工夫は、当に間居独処の時の如きと一般なるべし。〔晩録一七二〕
(独り慎む工夫は、自分が多くの人の座っている場所の中にいるのと同じ気持ちでいればいい。
人と応対する工夫は、一人でくつろいでいるときと同じように自然にすればいい。)
<出典:「言志四録 佐藤一斎」渡邉五郎三郎監修 致知出版社>
(慎独とは、自らを客観視し、自らの危うさから学ぶために
畏れ悩むほど自分の言動を省みることです。)
慎独には、早朝の静けさが最適と考えていました。
暗闇と静寂は、自分の五感を自らに向けさせてくれます。
その中で、自分自身にあらゆる問いを投げかければ、
心が洗われるような清々しさを感じることさえあります。
多くの人の中にいる状態での慎独とは、どのようなものでしょう。
微かな記憶に、若いころそのような瞬間があったような気がします。
ただ、50年以上生きたいま、明るくにぎやかな場所は、
様々な雑事が否応なしに頭をよぎってしまいます。
しかし、そういう環境下で慎独に集中する試みこそ、
「安心立命」のできる境涯に達する道なのかとも感じます。
※安心立命とは、逆順によりて心を二にせず、
順境なればとて調子に乗らず、逆境なればとて落胆せざるの謂なり。
(引用:「修身教授録」森信三著 致知出版社)
応対では、何らかの身構えが生じ、また配慮しようとします。
それを、一人でくつろいでいるときと同じような自然な態度で処するなら、
飾りのない本心を語ることができるのでしょう。
そして、相手にとっても煩わしい配慮や気遣いよりも、
その方がむしろ有意義な時間になるのかもしれません。
慎独と応対の工夫、
常識で考えるやり方と全く正反対のやり方が、
自らを高め
相手への真の思いやりにつながるであろうと思い直します。
心掛け、そして実行します。